星めぐり

詩、短歌、小説、写真、音楽、絵画、工芸品、人形、アンティーク家具、工業製品のデザインについて、その他諸々ありとあらゆる芸術作品、美しいもの、ことばとかたちに向き合い続けた。最初のうちはただただ楽しかったし、躁状態の感性の鋭さに比べたら劣っている気はするものの、「美術館でこれを見たい」とかそんな気持ちが消えていなかったことに少し安心していた。

ところが心の中にモヤモヤを感知し始め、モヤモヤが大きな不安へと姿を変え、とうとうこんな夜中に焦燥感で息苦しくなって、どうしようどうしよう何も生み出せない、何も生み出せない人生だったな、みたいな気持ちになっている。

よく「表現したいものがあるのに実力が追いついていない」と言う人がいるけど、私は最初から表現したいものとかなかったな、なんて、意識して何かを生み出そうとしてる時ほどこう思っちゃうよね。創作活動が捗ってる時は「何かを生み出そう」なんて思わなくても自然にアイデアが浮かんでくるし、とにかく没頭出来るし楽しめる。私をあの状態に持って行ってくれるのが、今のところ躁のエネルギーしかない。「もっと頑張れよ、自分、愚痴ってないで手を動かして創作しろ!」と言いたくなるが、「書こう、描こう……」と思えば思うほど何も生み出せなくなるし、無理やり生み出したものほど醜いものは無い。「かかなきゃ」と努力を重ねるほど最悪なものが出来上がっていく感じ。出来るならまだいいよ、殆どは何も生み出せないからね。でもゴミ作るよりは何も生み出さない方がマシなのかな。

元々表現したいものがあり、絵画や彫刻、写真といった手段を使い自身の思いを落とし込み、出来上がったものを世に向けて発信している人達。色々な作品を見た後は「私も彼らのようになりたい、私も絵を描いてみようか」なんて思ったりするけど、そもそも表現したいものもない私が彼らのようになれるわけがないのだ。ただ上手い絵を描いて評価して貰うのとは違うわけだし。

私なんて、昔も今も「私を見て」しかなかった。最早、生き様しか作品にならない。常々、生き恥晒してる……と思ってたはずなのに何故。

 

谷口菜津子さん(「教室の片隅で青春が始まる」の作者)のインタビューのお言葉

学生の頃、友達が「誰だって自分の人生を小説にしたらベストセラーになると思っている」と発言をしているのを聞き衝撃を受けました。「自分だけじゃなかったのか!!」と。

“特別”になりたい女の子の漫画が、SNSでバズった理由 | 放っておくだけで、泣くほどおいしい料理ができる | ダイヤモンド・オンライン

これを読んで、私も「自分だけじゃなかったのか」と思った。

早く終わらせることばかり考えていた人生だけど、それなりに自分に愛着を持てている。インターネットの世界で自分の内面を曝け出して、私を見てと願うくらいに。余談だけど、やっぱりこういう時に思い出すのは「嘘でもいい 嫌いでもいい 私を見つけて」という歌詞だった。

これからもずっと、全てを暴かないで欲しいけど、丁度いいところで私のことを見守っていてくれ。

 

みんな特別だからこそ、選ばれなかったから特別じゃない、ではないんだよね。そのうち私にも縁があって、私の条件に合うような状況が必ず巡ってくると思う。人間関係にせよ、才能を発揮する場所にせよ。みんなもそう。

パニックになってたはずなのに、最終的に何が言いたかったか分からなくなってしまった。落ち着きを取り戻せたのなら何よりです。寝てね。