あの日の私

2022年11月30日の日記

 

先日から、私は自己責任と言う名の暴力を振りかざす人間なのだと強く意識させられ、それ以来自分の発言、はたまた存在そのものが暴力であり罪なのだと感じるようになった。
絶望というか、絶望する資格もないほどに終わっています。こんな風に悲しい時、「私どう生きていけばいいですか」と駆け込める場所、お金さえ払えばいくらでもある。じゃあそこまでして生きたいのかって言われると、馬鹿馬鹿しく思えてくる。生きるも死ぬも勝手に選んでいい。どっちも選ぶ勇気がないなら、答えなんて出さなくていい。死んだ目で生きるのもひとつの答えなのです。どっちつかずで贅沢に思うかもしれないけど、それでもいいんですよ。ちゃんと生きられないことに、答えなんて出さなくていい。これからどうするかを明確に言語化しなくていい。君の安いプライドはそれをすることも許さないかもしれないけど。君は誰よりも生にしがみついていますね。人が死ぬのは見たくないし、本当は自分も死にたくないんでしょ。毎日こんなにも必要以上に不安と恐怖を抱く君にできる唯一の方法は、何かに没頭することのみです。君が今この瞬間命を手放さずに済むのなら、何かがそこまで君の気持ちを動かしたなら、それはもう尊いものですよ。薄っぺらい愛なんて卑下しなくていいです。たとえ、薄っぺらい愛だったとしても、人類みんな薄っぺらい愛に助けられて生きているのが事実なので、別にそれでいいんです。

ねえ、なんでそうまでして許されたいんだよ。最初から誰にも許して貰えないシステムになってるよこの世なんて。分かり合えるはずないじゃない。みんな分かり合えるかもって希望を抱いて、それを人を信じることだと思い込んで生きているだけだよ。でもそれは別に悪いことじゃないです。許されたいとか信じたいとか、別に汚くない。みんな綺麗です。そもそも別に綺麗とか汚いとかそんな言葉で表現する必要もなくて、ただそこにそれぞれの人格があることが許されるべきなんです。生きていることの"許し"があった時に、同時に"許されない"が生まれてしまうなら、本当は許しも要らないんです。誰にも何も言われてないのに、ただ生活していくことが、生きることが難しい。私は馬鹿だから、言葉にしないと確認できない。言葉にしても分からない時もある。