孤独謳歌

書く場所や書く頻度が変わったというだけで、相変わらず言葉は紡ぎ続けているよ。何でも、一言一句書き留めておかないと居られなかった、過去の自分を愛おしくも思う。書けなくなってしまったから終わり、なんて考えからもようやく解放された。時が来たら勝手に書く。そういう子です。私は。この子は。

 


自殺未遂とか自傷行為とかPTSDとか、そんな言葉を使わずに自分自身を説明できる、というか説明にそんな言葉はいらないと言えるようになったら、それはもう間違いなく成長だなと思えるけど、残念ながらそこまでには至っておらず。これらの概念をさ、ステータス、とは言わないか……ええと、なんというか、アイデンティティのひとつにしない方がいいのでは、と思う。いや、アイデンティティになってしまうことは仕方ないや。ただ自分を表す概念はこれだけしかありません、なんて思い込まないで欲しい。いい意味でも悪い意味でも。

 


性的指向に限らず、パーソナリティに関しても定義づけなんていくらでも出来るが、根底はその人はその人でしかないんだよな。私を見て!という時に概念が役立つこともあるけど、別にその概念が私を私たらしめてるものじゃないじゃん。前提として私がいて、概念は後付じゃん。自殺のアイデンティティもそうじゃないかな。別にそんな栄光に縋らなくとも君は君だと思いますがどうですか?」なんて、去年の、5月11日の私が言っていましたよ。どうですか。

 


ある場所では、自身の過去を赤裸々に綴っている。上に書いたような、マイナスな要素を逆に前面に出して。元々誰かに見せるためのものではなかった。ただ過去を整理するために、思いついたことをひたすら言語化しているだけ。それがたまたま誰かの目に止まって、たまたま気に入ってもらえて、というだけ。

そんなことをしている一方で、別の場所では、そんな過去を微塵も感じさせないように振舞っている。全てを知られてしまったら、嫌われて何もかも失うかもしれないから。

 


生き急がなくなった私。

もう一人の自分と、脳内で徹底的に話し合うことで、喧嘩しないどころか共存できるようになった。血も涙も流れずに済むことが増えた。楽しみや幸せから目をそらさないようにしたら、没頭できることも増えた。人の目を気にすることなく、「好きだ」と言えるものに出会えた。

これが穏やかな人生ということでしょうか?

 


何だか張りがない。張りがない、と思うなんて。なんて。ようやくスタート地点に立てたとも言えるのに?私の心は真っ二つに分かれてるから、幸せは受け取れないし、どうせ死んだ方がいいんです、とでもお得意の言い訳をしてみる?

 


もう見苦しい言い訳をしたくないから、痛いことから逃げないで言語化してみますが、多分、過去の私は血や涙を流して、何となく頑張った気に、それなりに生きている気になっていたんだと思う。何にも頑張ってなかったよ。何も頑張れなかったよ。恥を、血や痛みや死で誤魔化すことは出来ない。出来た気になっていたとしても、いずれ限界がくる。そのことに気付いた今が、ようやくスタート地点なんじゃないですか。

やりたいこと、何もないよね。分かる。元々、長生きするつもりなんかなかったし、「死んじゃダメ」なんて自分に言われると思わなかったもんね。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

何も起きない、穏やかそうに見える人生を自分で切り開いていくのは辛いことだよ。(これを辛いとしか思えない人生送ってきたことが悪いのか笑)穏やか。何も起きない。でも、そこに無理矢理傷をつけて、激しい演出を加えたところで、そんな人生偽物なんだ、中身なんてないんだ。それが今までの私。

 


こんなこと書くつもり無かったのだけど、久しぶりに勢いだけで気持ちを綴ってみたらこんなことに。さて、どうやって生きようかな。生きていることを実感すると、自分の声とか感覚を意識してしまうと、恥ずかしくて辛いものにしかならないですね。模索中です。