数ヶ月前の日記の抜粋。昔はリアルタイムで自分の思いを綴ることにこだわっていたが、こうやって気が向いた時に切り貼りして、時系列もよく分かんないけど、貴方という人間の根っこの部分は変わらないね、ってそう思わせるような何かをここに綴ることが、私のしたかったことなんじゃないの。

 

・いつか自傷行為しなくなっても、自殺未遂の記憶を支えにしなくても、好きな人に嫌われても、不幸の沼から抜け出して幸せな方向へ向かおうとしても、私が私であることには変わりないのかも。

そもそも、そうやって自分で認めてあげるだけでよかったのに、今まで他人の評価に頼りすぎていた。評価されない=終わってるんだと思ってた。当たり前だけど全人類と分かちあうことも、誰からも嫌われずに生きていくことなんてできない。そもそも、本当はみんなと分かち合いたいとも、全員に嫌われたくないとも思ってないでしょ?それは好きな人相手に限った話でしょ?相手を勝手にジャッジして選んだ上で、この人はどうでもいい、この人には嫌われたくない、って、なんて勝手で傲慢なんだろう、と思ったけど、それってわりと当たり前な感情かもしれない。極端なこと言うけど、犯罪者とかモラハラ人間にまで好かれたいとは思わないでしょ?自分を傷つける人、自分を脅かすような存在から逃げたいと思うのは、ある意味当然なんじゃないかな。私、もう少し自分の感覚を本当の意味で大事にしたら、そこまで他者評価に重きをおかなくても平気になれるんじゃないかな。でも一人で強くなるのも寂しいタイプだから、本当に厄介だね。ある場面では一人で強く居たい、自立したい、ある場面では弱い部分をさらけ出したい、甘えてみたい。これらは人間的な営みだね。怖がらなくて人間になっていいよ、とだけ言ってあげよう。安心して間違えればいい。安心して間違えられないなら、それはあなたが悪いんじゃなくて、世の中が間違っているのだから。なんて、傲慢極まりない"人間"の戯言でございました。

 

・私は多くを与えられて狂ってしまったと思い込んでいたけど、孤独も好意も特別なことではなくて。与えられすぎた分その反動で、というのは都合のいい言い訳だったのかな。私は人と違うんですって、人間であることを認められないからいちいち全部特別扱いしちゃう。過剰な愛を与えられる前からきみはずっと孤独を感じていたんじゃないの?孤独は物心ついた時からだね。きっと孤独の原因はほかにある。

 

・傷つくのが怖くて、後出しジャンケンみたいな生き方をしがち。「傷つくのが怖いって言うのは当たり前の感情なんじゃないかな」と言われたけど、私は今この瞬間、貴方相手に傷つきたくないというずるい考えを抱いてしまっているの。それを知っても同じこと言える?「貴方がいいならいいけど……」という気持ちは、純粋に「貴方が嬉しいなら私も嬉しいです」という感覚がいちばん大きいんだけど、少なからず「貴方が嬉しいって思ってくれてないと、私は安心して嬉しいって言えません」という気持ちもあったと思う。「楽しい」「嬉しい」「好き」とか、全部自分から言って同じ答えが返ってこなかったら、って思うと怖いから言えないんだよね。相手に言わせてしまう。それで「私も同じ気持ち」って言ったら、半分流されたみたいになるから楽じゃん。逃げてんだよな。改めて己の狡さを自覚すると苦しいものがあるね。

 

・激情というものは、孤独感を満たすにはぴったりなんだな、と。手っ取り早く寂しさから開放されたい、手っ取り早く満たされたいなんて思ってる時は、何かの対象へ盲目的な愛を注げばいい。愛とか言ってしまったけど、実際は愛という名の紛い物、執着心である。これは恋だ愛だ特別な感情だと思い込むことで自分の心を守ってるだけ。魔法が解けたら私は一人ぼっちになっちゃうもんね。幼少期から寂しくてたまらなかった私は、いつの間にか欲しがりな性格になっていたらしい。長い目で見て確実に幸せになれるのって穏やかな愛情だけだと思う。激情は身を滅ぼす。穏やかな愛情から始まったものもいつかは終わりを迎えるかもしれないけど、きっとその類のものは終わる時だって穏やかなはずだ。その時はきっと幸せな記憶も残ると信じている。話が逸れたが、長年愛情に飢えていた私は激情を伴うような関係性を求めていた。一方で、激情に傷つけられてきたことも事実だから、その手のものを酷く恐れていた。ここで鍵となるのが、罪の意識。自罰的感情。私は私のことを"罪深く罰を与えられるべき人間"だと思って生きてきたから、最早自分が傷つくことには何の抵抗もなくなっていた。穏やかな幸せだけを挑めたら良かったのに、寂しくなれば手っ取り早く自分を満たしてくれるような激しい関係に手を伸ばし、それで心を消耗させ、最終的に自傷へと行き着く。でもそういう過程で自傷にたどり着くまでが私のハッピーエンドだったのかも。いや嘘。本当は全然ハッピーではないですね。ハッピーってことにしておけば、自傷行為を正当化できるという最低最悪な理由からくるものですね。自分がどうしたいか、どう生きたいかって、本当は誰かに聞いて欲しかった。普通そんなの話さなくても生きていけるんだろうけど、 私の異常な罪悪感と孤独感は自分一人で抱えるには重すぎたから、誰か助けてってずっと思ってた。多分私の話聞いて全部言い訳じゃんって思う人はいると思う。言い訳並べるというか、懺悔をしたかったの。聞いてください、ごめんなさい、って、言わないと生きていけないの。昔も今もずっと。まあ何だかんだ言いながら、この罪悪感って一生解消されること無さそうだし、=自傷行為で帳消しにできる訳でもないんだけど、手っ取り早く一時的に心を解放するには、自傷行為が1番なんだよね。物理的に自分を傷つけるのもそうだし、他者から向けられる激情に身を委ねることだってそう。流されてしまえば楽なんだよ。

 

・人への信頼を覚えると簡単に自殺という道を選べなくなるね。死ぬなら全員と縁切ってから死ぬ。そのくらいの覚悟ないなら自殺なんてやめとけ。まあ今、死神がそばにいないからこんなこと言えるんですけど。死神に地獄に連れ去られそうになってる時は、必死な訳ですから、そんなこと考える余裕もなくなってしまうんだよね。

 

・私は、冒険しない生き方で心を守ってたのかも。何年も同じ世界で生き続ける。代わり映えのしない世界、同じ生活、同じ景色。何度も聴いた音楽、何度も観た映画、何度も開いた小説。一度愛してしまったものたち。それらの多くは人間のように意志を持たないものなので、滅多なことがない限り私は傷つかない。過去に愛した世界は、安心を覚えた世界、救いを感じた世界とも言える。もう傷つきたくないもんね。傷つけられたくないもんね。何だかんだで、自分の身を守ろうとしていたんだな。新しいことを始めれば終わりに脅える生活が続くし、終わってしまえばまた傷つくし。最早、新しいものと関わる時間そのものがストレスになるし、それなら君が過去に愛した、安心した世界に浸るのは何も悪いことじゃない。何年も同じ生活から抜け出せないことを恥だと思っていた。自分の知ってる世界でしか物事をはかれない、視野の狭さ、想像力の無さに、自己嫌悪に陥ることがあった。でもまあ、私、何だかんだこれで良かったのかな、と今は思えている。こんな生活の中でも、新しい出会いは転がっているからね。些細なことだけど、新しい安心の欠片、年々手に入れてる気がします。何も進んでないなんてことは無かったと思う。物とか言葉とか体験とか、宝箱にしまってあるよ。いつの間にか私の部屋の片隅に宝箱が出来ていました。貴方達から頂いたもの、私が自分で手に入れたもの、もの、言葉、体験、全て大事に閉まってあります。どう?安心できる場所のイメージは固まってきましたか。どうにか生き延びることができそうでしょうか。生きるのが嫌になる日があったっていいんです。こんなどうしようも無い世の中なんだから、苦しむことはおかしいことじゃないと私は思います。宝箱の中覗いたら、「生きててよかった」とは思えるよね。「生まれてきてよかった」ではないです。「意味、同じじゃない?」と思うかもしれないけど、私の中では違います。「生まれてきてよかった」とまでは思えないけど、「あの時死んでしまわなくてよかった」とは思います。素直に。

 

・私、本当は誰よりも自分のことが好きだと思います。私は自分が好きだから、大好きな自分のこと誰からも汚されたくなかったんです。傷つけられたくなかったんです。私の好きな私を否定されたら苦しい。いくら私が自分で自分を認められていたとしても、他人にジャッジされてしまったら私は途端に自信が持てなくなる。でも、「一生誰にも認めてもらえなくたって生きていける」なんて言いきれるほど私は強くない。普通に寂しいし、誰からも見向きもされないのはやっぱり辛いですよ。いい評価だけしか受け入れたくないなんて傲慢かな。でも当たり前か。

自分の一番好きな作品を人に勧めてしまったのですが(勇気を持って自分の意思でね)、私、この物語を愛しているし、これは最早私の人生そのものだから、貴方からの悪い評価なんて聞きたくないんです。心無いジャッジで、私の人生ごと否定されたみたいな気分になりたくない。でもこれを読んで、私という人間が少しでも伝わったら、あなたが私に対して勝手に抱いたイメージとはまた違って、私が「これが私よ」と示した正しい私のイメージ、それを感じ取ってくれたら嬉しいなと思ったの。まあ、私目線で私の話をしてる時は「正しい」と思って当然で、そして他人の目を通してみる時はやはり他人だから見方、感じ方はどうしても変わってくる。物語に対して正しい読み方なんてないと思うのだがね。

 

・私、昔から待つばかりの人生だった。「こういうの自分から誘うもんじゃないし」と思って、正しい選択したつもりでいたけど、なんか私全部言わせてばっかりじゃんって。与えないくせに欲しがってた。以前、「相手が楽しいって言ってくれないと、私は安心して楽しいって言えない」などと呟いた。「楽しい」「嬉しい」「好き」とか、全部自分から言って同じ答えが返ってこなかったら、って思うと怖いから言えないんだよね。相手に言わせてしまう。それで「私も同じ気持ち」って言ったら、半分流されたみたいになるから楽じゃん。逃げてんだよな。改めて己の狡さを自覚すると苦しいものがあるね。遊びの誘いとか、些細な日常のやり取りにもそれが現れている。当たり前じゃん。私から誘うとか気持ち悪いし、うざいし、あくまで相手が私に気持ち向いた時にだけで、って。それが謙虚で、自分のあるべき姿だと思ってた。人に依存しない美しい生き方だと思ってた。でも、この生き方ただボール投げてもらうの待ってるだけだし、相手の気持ちを自分の孤独を埋めるためだけに上手く利用してしまっているんだな。
私、「なんで返事遅いの!もっと構って!電話もしたいしもっと会いたい!寂しい!」なんて言わない自分のこと、めちゃくちゃいい子でしょ?大人でしょ?私、優しいでしょ?って思って、自分に酔ってた。(まあ、気持ち抑えてるとかじゃなく、純粋にこんなこと思わないっていうのが一番大きいけどね)でも私がこんな振る舞いできるのって、相手が会話のボールを投げてくれるからだ。いつも誰かが連絡してくれるから、私は不安にならずに済んでいた。何もかも受け入れて、たまに自分が折れることで疲れることもあったけど、そんなことにすら不満ももらさず、いつだって「全然大丈夫ですよ☺」なんて受け流す私が健気でいい子で、

もしかしたらみんなも気に入ってくれるんじゃないかなって思ってた。正直だねぇ。この正直さ、一周まわって可愛いけど、こんなんだから多分これからも誰からも好かれないと思うよ。嫌われないようにって必死で武装してるけど本当は人に興味無いでしょ?ただ嫌われたくないだけでしょ。

【いい子】になりたかった。でもそうやって武装して出来上がったのは【どうでもいい子】だった。昔から待つばかりの人生だった。「誘いなんて自分からするものじゃない、だって私なんかに」と思って正しい選択したつもりでいたけど、私全部言わせてばっかりじゃんって。与えないくせに欲しがってた。

また自分の醜い部分を知ってしまったね。それは事実として受け止めた上で、君は今まで通り生きていったらいいと思いますよ。行動の根っこにあるのが"自分にしか向けられない醜い愛"だったとしても、何にせよ人に執着するのは間違ってるから、好きなだけ【いい子】でいたらいいんじゃないですか。