不感症

頑張りたくない。頑張りたくない、の極限まで来てる。一体どうしてこんなことになってしまったのか。

 


「何故頑張れないか」を考える前に、「何を頑張りたくないか」、「何なら頑張れるか」を考えてみることにした。もっと言うと、「頑張る」という言葉に身構えているだけな気もするので、「何に対してなら情熱を注げるか、愛着を持てるか」という観点で考えてみることにする。

 


で、現在の私は、一言でまとめると「コスパが悪いことをしたくない」、に尽きるんじゃないかと思った。長い時間をかけて頑張らねばならないことに対しては、一言目に「どうせ長生きするはつもりない。そのうち死ぬ予定だったから、それにかけたお金とか全部無駄になる」が来る。

じゃあ、何ならお金をかけられるか、というか、実際にお金をかけているものは……

好きなアーティストの諸々には惜しみなく金を使っている。すみません。気持ち悪くて。と言っても、後先考えずに使うわけじゃない。決まった額はきちんと貯金して、使える範囲のお金でアーティストを応援したいだけだ。応援というか、私が楽しいからってだけかもしれない。キモ。大抵、新しく出たCDやDVDを買う。「特典会に必ず参加するため」という理由で大量のCDを買うことはないが、とりあえず買った分は応募しておく。そして、コンサートが発表されれば、行ける範囲の日程のチケットを取る。私は地方に住んでおり、コンサートに行く時はどうしても泊まりになるため、航空券やホテルを手配する。コンサートという素晴らしい予定が入れば、身なりを整えたくなるので、新しい服を買う。誰の目にも止まらないが、私が自分で納得したいがために服を買っている。好きな服を着て好きな人に会いに行く方が楽しい。

アーティストのイベントに限らず、好きな人たちに会う時はお洒落したいし、出来る限り可愛く在りたい。身なりばかり気にしすぎだとは思う。たまに何のためか分からなくなる。でも基本は、自分のためだったはずだ。褒められたいとかじゃなく、私が私のことを好きでいたい、というより、嫌いになりたくないからだと思う。

 


で、書いてみたら他にお金使うことある?っていう……

ないかもしれない。本当に、ないかも。どうしよう。しかし、決まった額の範囲内でお金を使い、貯金もしている(やっと目標額に達して安堵したところ)のなら、別に何ら問題はないはずなんだけど、これ以外に情熱持てないのって大丈夫か?と、ふと思った。私、ただでさえ何も持ってない人間だし。

ただ好きなことしてるだけで、何も努力してない。お金稼いで貯めるのは努力?毎日やることやって、ちょっと我慢すれば勝手に貯まるから努力ではない。私の給料、雀の涙だけど。健康体を保つのは努力?やっとそういう状態保てるようにはなったけど、それって当たり前のことだしね。

じゃあ、何、新しいことを始めて、血流して努力すれば、それでやっと自分のこと認められるって?しかし、悲しいことに何に対しても興味がわかない。新しく何かを始めよう、なんてそんな情熱をもてるものないし、気力がない。そういう出会いがあった時に頑張れる自分であればいいだけで、今何も無いからって、新しく頑張れること探そうとするのも何か違和感を覚える。

あれこれ、頑張れない(頑張らない)理由つけて、その場に留まろうとしてるだけな気もする。では、頑張らずにその場に留まるのはいけないことか?べつに、いけないことではない。罪ではない。ただ、何もしていないということに、ほんの少し罪悪感が湧くだけでしょ。

だるい。ここまで書いたけど何書こうとしたかも忘れた。とにかくだるい。頑張りたくないだけ。全く頑張ってないくせに、それなりに真面目に頑張ってるふうに振る舞うのは上手かったのかな。いや、これは流石に全方位に失礼な気がする。頑張りたくない。面白いこととか何もない。好きな人にまつわることすら学びたくない。めんどくさい。

 


私という人間が生まれてしまったからには、私という人間と出会ってしまったからには、なるべく死なないでいた方が誰も傷つかないのかも。こんな人間でも、というか、どういう人間とか関係なしに、存在の喪失は悲しいものだから?

じゃあ人のために生きなくていいよ、別に頑張ってくれなくて結構ですよ、って言われたら、私死ぬのかな。ちゃんと死ねるのかな。昔は、死のうとすることに対して、または死に抗おうとすることを頑張れたけど、今はそういうのないです。ていうか、そんなもの、頑張ってする事じゃないんですよね。耐えなくても大抵は生きられるし、死ぬこともできる。

私はただ、特定の人を失いたくないがために、とりあえず自分も生きてるだけ。まだ生きて会いたいから、と生きてるだけ。ほとんど人。みんなは、私に会いたくて生きてる人とかいないと思う。いや、たくさんの理由の一つに、私とまた会いたいが隠れてることはあったとしても、私と会いたい、という、それだけの理由で生きてる人はいないだろう。私は全然、他に生きる理由なんかないから、全然、あなたに会うため、だけで生きられました。だから私には何もないんです。

あの日の私

2022年11月30日の日記

 

先日から、私は自己責任と言う名の暴力を振りかざす人間なのだと強く意識させられ、それ以来自分の発言、はたまた存在そのものが暴力であり罪なのだと感じるようになった。
絶望というか、絶望する資格もないほどに終わっています。こんな風に悲しい時、「私どう生きていけばいいですか」と駆け込める場所、お金さえ払えばいくらでもある。じゃあそこまでして生きたいのかって言われると、馬鹿馬鹿しく思えてくる。生きるも死ぬも勝手に選んでいい。どっちも選ぶ勇気がないなら、答えなんて出さなくていい。死んだ目で生きるのもひとつの答えなのです。どっちつかずで贅沢に思うかもしれないけど、それでもいいんですよ。ちゃんと生きられないことに、答えなんて出さなくていい。これからどうするかを明確に言語化しなくていい。君の安いプライドはそれをすることも許さないかもしれないけど。君は誰よりも生にしがみついていますね。人が死ぬのは見たくないし、本当は自分も死にたくないんでしょ。毎日こんなにも必要以上に不安と恐怖を抱く君にできる唯一の方法は、何かに没頭することのみです。君が今この瞬間命を手放さずに済むのなら、何かがそこまで君の気持ちを動かしたなら、それはもう尊いものですよ。薄っぺらい愛なんて卑下しなくていいです。たとえ、薄っぺらい愛だったとしても、人類みんな薄っぺらい愛に助けられて生きているのが事実なので、別にそれでいいんです。

ねえ、なんでそうまでして許されたいんだよ。最初から誰にも許して貰えないシステムになってるよこの世なんて。分かり合えるはずないじゃない。みんな分かり合えるかもって希望を抱いて、それを人を信じることだと思い込んで生きているだけだよ。でもそれは別に悪いことじゃないです。許されたいとか信じたいとか、別に汚くない。みんな綺麗です。そもそも別に綺麗とか汚いとかそんな言葉で表現する必要もなくて、ただそこにそれぞれの人格があることが許されるべきなんです。生きていることの"許し"があった時に、同時に"許されない"が生まれてしまうなら、本当は許しも要らないんです。誰にも何も言われてないのに、ただ生活していくことが、生きることが難しい。私は馬鹿だから、言葉にしないと確認できない。言葉にしても分からない時もある。

孤独謳歌

書く場所や書く頻度が変わったというだけで、相変わらず言葉は紡ぎ続けているよ。何でも、一言一句書き留めておかないと居られなかった、過去の自分を愛おしくも思う。書けなくなってしまったから終わり、なんて考えからもようやく解放された。時が来たら勝手に書く。そういう子です。私は。この子は。

 


自殺未遂とか自傷行為とかPTSDとか、そんな言葉を使わずに自分自身を説明できる、というか説明にそんな言葉はいらないと言えるようになったら、それはもう間違いなく成長だなと思えるけど、残念ながらそこまでには至っておらず。これらの概念をさ、ステータス、とは言わないか……ええと、なんというか、アイデンティティのひとつにしない方がいいのでは、と思う。いや、アイデンティティになってしまうことは仕方ないや。ただ自分を表す概念はこれだけしかありません、なんて思い込まないで欲しい。いい意味でも悪い意味でも。

 


性的指向に限らず、パーソナリティに関しても定義づけなんていくらでも出来るが、根底はその人はその人でしかないんだよな。私を見て!という時に概念が役立つこともあるけど、別にその概念が私を私たらしめてるものじゃないじゃん。前提として私がいて、概念は後付じゃん。自殺のアイデンティティもそうじゃないかな。別にそんな栄光に縋らなくとも君は君だと思いますがどうですか?」なんて、去年の、5月11日の私が言っていましたよ。どうですか。

 


ある場所では、自身の過去を赤裸々に綴っている。上に書いたような、マイナスな要素を逆に前面に出して。元々誰かに見せるためのものではなかった。ただ過去を整理するために、思いついたことをひたすら言語化しているだけ。それがたまたま誰かの目に止まって、たまたま気に入ってもらえて、というだけ。

そんなことをしている一方で、別の場所では、そんな過去を微塵も感じさせないように振舞っている。全てを知られてしまったら、嫌われて何もかも失うかもしれないから。

 


生き急がなくなった私。

もう一人の自分と、脳内で徹底的に話し合うことで、喧嘩しないどころか共存できるようになった。血も涙も流れずに済むことが増えた。楽しみや幸せから目をそらさないようにしたら、没頭できることも増えた。人の目を気にすることなく、「好きだ」と言えるものに出会えた。

これが穏やかな人生ということでしょうか?

 


何だか張りがない。張りがない、と思うなんて。なんて。ようやくスタート地点に立てたとも言えるのに?私の心は真っ二つに分かれてるから、幸せは受け取れないし、どうせ死んだ方がいいんです、とでもお得意の言い訳をしてみる?

 


もう見苦しい言い訳をしたくないから、痛いことから逃げないで言語化してみますが、多分、過去の私は血や涙を流して、何となく頑張った気に、それなりに生きている気になっていたんだと思う。何にも頑張ってなかったよ。何も頑張れなかったよ。恥を、血や痛みや死で誤魔化すことは出来ない。出来た気になっていたとしても、いずれ限界がくる。そのことに気付いた今が、ようやくスタート地点なんじゃないですか。

やりたいこと、何もないよね。分かる。元々、長生きするつもりなんかなかったし、「死んじゃダメ」なんて自分に言われると思わなかったもんね。痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

何も起きない、穏やかそうに見える人生を自分で切り開いていくのは辛いことだよ。(これを辛いとしか思えない人生送ってきたことが悪いのか笑)穏やか。何も起きない。でも、そこに無理矢理傷をつけて、激しい演出を加えたところで、そんな人生偽物なんだ、中身なんてないんだ。それが今までの私。

 


こんなこと書くつもり無かったのだけど、久しぶりに勢いだけで気持ちを綴ってみたらこんなことに。さて、どうやって生きようかな。生きていることを実感すると、自分の声とか感覚を意識してしまうと、恥ずかしくて辛いものにしかならないですね。模索中です。

数ヶ月前の日記の抜粋。昔はリアルタイムで自分の思いを綴ることにこだわっていたが、こうやって気が向いた時に切り貼りして、時系列もよく分かんないけど、貴方という人間の根っこの部分は変わらないね、ってそう思わせるような何かをここに綴ることが、私のしたかったことなんじゃないの。

 

・いつか自傷行為しなくなっても、自殺未遂の記憶を支えにしなくても、好きな人に嫌われても、不幸の沼から抜け出して幸せな方向へ向かおうとしても、私が私であることには変わりないのかも。

そもそも、そうやって自分で認めてあげるだけでよかったのに、今まで他人の評価に頼りすぎていた。評価されない=終わってるんだと思ってた。当たり前だけど全人類と分かちあうことも、誰からも嫌われずに生きていくことなんてできない。そもそも、本当はみんなと分かち合いたいとも、全員に嫌われたくないとも思ってないでしょ?それは好きな人相手に限った話でしょ?相手を勝手にジャッジして選んだ上で、この人はどうでもいい、この人には嫌われたくない、って、なんて勝手で傲慢なんだろう、と思ったけど、それってわりと当たり前な感情かもしれない。極端なこと言うけど、犯罪者とかモラハラ人間にまで好かれたいとは思わないでしょ?自分を傷つける人、自分を脅かすような存在から逃げたいと思うのは、ある意味当然なんじゃないかな。私、もう少し自分の感覚を本当の意味で大事にしたら、そこまで他者評価に重きをおかなくても平気になれるんじゃないかな。でも一人で強くなるのも寂しいタイプだから、本当に厄介だね。ある場面では一人で強く居たい、自立したい、ある場面では弱い部分をさらけ出したい、甘えてみたい。これらは人間的な営みだね。怖がらなくて人間になっていいよ、とだけ言ってあげよう。安心して間違えればいい。安心して間違えられないなら、それはあなたが悪いんじゃなくて、世の中が間違っているのだから。なんて、傲慢極まりない"人間"の戯言でございました。

 

・私は多くを与えられて狂ってしまったと思い込んでいたけど、孤独も好意も特別なことではなくて。与えられすぎた分その反動で、というのは都合のいい言い訳だったのかな。私は人と違うんですって、人間であることを認められないからいちいち全部特別扱いしちゃう。過剰な愛を与えられる前からきみはずっと孤独を感じていたんじゃないの?孤独は物心ついた時からだね。きっと孤独の原因はほかにある。

 

・傷つくのが怖くて、後出しジャンケンみたいな生き方をしがち。「傷つくのが怖いって言うのは当たり前の感情なんじゃないかな」と言われたけど、私は今この瞬間、貴方相手に傷つきたくないというずるい考えを抱いてしまっているの。それを知っても同じこと言える?「貴方がいいならいいけど……」という気持ちは、純粋に「貴方が嬉しいなら私も嬉しいです」という感覚がいちばん大きいんだけど、少なからず「貴方が嬉しいって思ってくれてないと、私は安心して嬉しいって言えません」という気持ちもあったと思う。「楽しい」「嬉しい」「好き」とか、全部自分から言って同じ答えが返ってこなかったら、って思うと怖いから言えないんだよね。相手に言わせてしまう。それで「私も同じ気持ち」って言ったら、半分流されたみたいになるから楽じゃん。逃げてんだよな。改めて己の狡さを自覚すると苦しいものがあるね。

 

・激情というものは、孤独感を満たすにはぴったりなんだな、と。手っ取り早く寂しさから開放されたい、手っ取り早く満たされたいなんて思ってる時は、何かの対象へ盲目的な愛を注げばいい。愛とか言ってしまったけど、実際は愛という名の紛い物、執着心である。これは恋だ愛だ特別な感情だと思い込むことで自分の心を守ってるだけ。魔法が解けたら私は一人ぼっちになっちゃうもんね。幼少期から寂しくてたまらなかった私は、いつの間にか欲しがりな性格になっていたらしい。長い目で見て確実に幸せになれるのって穏やかな愛情だけだと思う。激情は身を滅ぼす。穏やかな愛情から始まったものもいつかは終わりを迎えるかもしれないけど、きっとその類のものは終わる時だって穏やかなはずだ。その時はきっと幸せな記憶も残ると信じている。話が逸れたが、長年愛情に飢えていた私は激情を伴うような関係性を求めていた。一方で、激情に傷つけられてきたことも事実だから、その手のものを酷く恐れていた。ここで鍵となるのが、罪の意識。自罰的感情。私は私のことを"罪深く罰を与えられるべき人間"だと思って生きてきたから、最早自分が傷つくことには何の抵抗もなくなっていた。穏やかな幸せだけを挑めたら良かったのに、寂しくなれば手っ取り早く自分を満たしてくれるような激しい関係に手を伸ばし、それで心を消耗させ、最終的に自傷へと行き着く。でもそういう過程で自傷にたどり着くまでが私のハッピーエンドだったのかも。いや嘘。本当は全然ハッピーではないですね。ハッピーってことにしておけば、自傷行為を正当化できるという最低最悪な理由からくるものですね。自分がどうしたいか、どう生きたいかって、本当は誰かに聞いて欲しかった。普通そんなの話さなくても生きていけるんだろうけど、 私の異常な罪悪感と孤独感は自分一人で抱えるには重すぎたから、誰か助けてってずっと思ってた。多分私の話聞いて全部言い訳じゃんって思う人はいると思う。言い訳並べるというか、懺悔をしたかったの。聞いてください、ごめんなさい、って、言わないと生きていけないの。昔も今もずっと。まあ何だかんだ言いながら、この罪悪感って一生解消されること無さそうだし、=自傷行為で帳消しにできる訳でもないんだけど、手っ取り早く一時的に心を解放するには、自傷行為が1番なんだよね。物理的に自分を傷つけるのもそうだし、他者から向けられる激情に身を委ねることだってそう。流されてしまえば楽なんだよ。

 

・人への信頼を覚えると簡単に自殺という道を選べなくなるね。死ぬなら全員と縁切ってから死ぬ。そのくらいの覚悟ないなら自殺なんてやめとけ。まあ今、死神がそばにいないからこんなこと言えるんですけど。死神に地獄に連れ去られそうになってる時は、必死な訳ですから、そんなこと考える余裕もなくなってしまうんだよね。

 

・私は、冒険しない生き方で心を守ってたのかも。何年も同じ世界で生き続ける。代わり映えのしない世界、同じ生活、同じ景色。何度も聴いた音楽、何度も観た映画、何度も開いた小説。一度愛してしまったものたち。それらの多くは人間のように意志を持たないものなので、滅多なことがない限り私は傷つかない。過去に愛した世界は、安心を覚えた世界、救いを感じた世界とも言える。もう傷つきたくないもんね。傷つけられたくないもんね。何だかんだで、自分の身を守ろうとしていたんだな。新しいことを始めれば終わりに脅える生活が続くし、終わってしまえばまた傷つくし。最早、新しいものと関わる時間そのものがストレスになるし、それなら君が過去に愛した、安心した世界に浸るのは何も悪いことじゃない。何年も同じ生活から抜け出せないことを恥だと思っていた。自分の知ってる世界でしか物事をはかれない、視野の狭さ、想像力の無さに、自己嫌悪に陥ることがあった。でもまあ、私、何だかんだこれで良かったのかな、と今は思えている。こんな生活の中でも、新しい出会いは転がっているからね。些細なことだけど、新しい安心の欠片、年々手に入れてる気がします。何も進んでないなんてことは無かったと思う。物とか言葉とか体験とか、宝箱にしまってあるよ。いつの間にか私の部屋の片隅に宝箱が出来ていました。貴方達から頂いたもの、私が自分で手に入れたもの、もの、言葉、体験、全て大事に閉まってあります。どう?安心できる場所のイメージは固まってきましたか。どうにか生き延びることができそうでしょうか。生きるのが嫌になる日があったっていいんです。こんなどうしようも無い世の中なんだから、苦しむことはおかしいことじゃないと私は思います。宝箱の中覗いたら、「生きててよかった」とは思えるよね。「生まれてきてよかった」ではないです。「意味、同じじゃない?」と思うかもしれないけど、私の中では違います。「生まれてきてよかった」とまでは思えないけど、「あの時死んでしまわなくてよかった」とは思います。素直に。

 

・私、本当は誰よりも自分のことが好きだと思います。私は自分が好きだから、大好きな自分のこと誰からも汚されたくなかったんです。傷つけられたくなかったんです。私の好きな私を否定されたら苦しい。いくら私が自分で自分を認められていたとしても、他人にジャッジされてしまったら私は途端に自信が持てなくなる。でも、「一生誰にも認めてもらえなくたって生きていける」なんて言いきれるほど私は強くない。普通に寂しいし、誰からも見向きもされないのはやっぱり辛いですよ。いい評価だけしか受け入れたくないなんて傲慢かな。でも当たり前か。

自分の一番好きな作品を人に勧めてしまったのですが(勇気を持って自分の意思でね)、私、この物語を愛しているし、これは最早私の人生そのものだから、貴方からの悪い評価なんて聞きたくないんです。心無いジャッジで、私の人生ごと否定されたみたいな気分になりたくない。でもこれを読んで、私という人間が少しでも伝わったら、あなたが私に対して勝手に抱いたイメージとはまた違って、私が「これが私よ」と示した正しい私のイメージ、それを感じ取ってくれたら嬉しいなと思ったの。まあ、私目線で私の話をしてる時は「正しい」と思って当然で、そして他人の目を通してみる時はやはり他人だから見方、感じ方はどうしても変わってくる。物語に対して正しい読み方なんてないと思うのだがね。

 

・私、昔から待つばかりの人生だった。「こういうの自分から誘うもんじゃないし」と思って、正しい選択したつもりでいたけど、なんか私全部言わせてばっかりじゃんって。与えないくせに欲しがってた。以前、「相手が楽しいって言ってくれないと、私は安心して楽しいって言えない」などと呟いた。「楽しい」「嬉しい」「好き」とか、全部自分から言って同じ答えが返ってこなかったら、って思うと怖いから言えないんだよね。相手に言わせてしまう。それで「私も同じ気持ち」って言ったら、半分流されたみたいになるから楽じゃん。逃げてんだよな。改めて己の狡さを自覚すると苦しいものがあるね。遊びの誘いとか、些細な日常のやり取りにもそれが現れている。当たり前じゃん。私から誘うとか気持ち悪いし、うざいし、あくまで相手が私に気持ち向いた時にだけで、って。それが謙虚で、自分のあるべき姿だと思ってた。人に依存しない美しい生き方だと思ってた。でも、この生き方ただボール投げてもらうの待ってるだけだし、相手の気持ちを自分の孤独を埋めるためだけに上手く利用してしまっているんだな。
私、「なんで返事遅いの!もっと構って!電話もしたいしもっと会いたい!寂しい!」なんて言わない自分のこと、めちゃくちゃいい子でしょ?大人でしょ?私、優しいでしょ?って思って、自分に酔ってた。(まあ、気持ち抑えてるとかじゃなく、純粋にこんなこと思わないっていうのが一番大きいけどね)でも私がこんな振る舞いできるのって、相手が会話のボールを投げてくれるからだ。いつも誰かが連絡してくれるから、私は不安にならずに済んでいた。何もかも受け入れて、たまに自分が折れることで疲れることもあったけど、そんなことにすら不満ももらさず、いつだって「全然大丈夫ですよ☺」なんて受け流す私が健気でいい子で、

もしかしたらみんなも気に入ってくれるんじゃないかなって思ってた。正直だねぇ。この正直さ、一周まわって可愛いけど、こんなんだから多分これからも誰からも好かれないと思うよ。嫌われないようにって必死で武装してるけど本当は人に興味無いでしょ?ただ嫌われたくないだけでしょ。

【いい子】になりたかった。でもそうやって武装して出来上がったのは【どうでもいい子】だった。昔から待つばかりの人生だった。「誘いなんて自分からするものじゃない、だって私なんかに」と思って正しい選択したつもりでいたけど、私全部言わせてばっかりじゃんって。与えないくせに欲しがってた。

また自分の醜い部分を知ってしまったね。それは事実として受け止めた上で、君は今まで通り生きていったらいいと思いますよ。行動の根っこにあるのが"自分にしか向けられない醜い愛"だったとしても、何にせよ人に執着するのは間違ってるから、好きなだけ【いい子】でいたらいいんじゃないですか。

どうやら、自分を許すか許さないかということも自分で決めていいらしく、弱虫の私は「殺してくれよ」と泣いている。

私、本当は自分で何も決められない、決めたくないのかもしれない。

別にこの先の未来でどんなことが待っていようと、自分がしたくないことは拒否したっていい。

自由を与えられるのが怖かったのかもしれない。私のような弱虫にとっては自由は怖い。太宰治も言っていた。弱虫は幸福を恐れる、綿で怪我をするのだと。

幸せが手に入りそうなことが怖い?私のような人間が一丁前に幸せを味わっているのを見下ろすのが怖い?「この人はいつかきっと私を脅かすだろう」という想像をして怖くなってる?私が少しでも拒否したら全てが終わりそうなことが怖くて怯えている?そうやって今後誰とも関係を築いていけなさそうだなと勝手に想像して勝手に決めつけて怖くて泣いてるの?分かんないね。

分からない。私は罰として嫌なことを受け入れようとしてるのか(自傷の一環)、罰以前に嫌とも思ってないから素直に受け入れてるだけなのか。初めてのことには好奇心と不安はつきものだから、私の感情も普通と言えば普通なんだろうし、ふたつの感情が混在していても何もおかしいことではない。そんなに自分のことおかしい人にしたい?異常だって思いたい?「そうしないと辻褄が合わないとか説明がつかない」とか、じゃあ辻褄とか説明って何なんだよ。

今まで、自分が嫌なのか望んでいるのかは置いておいて、「世間的にはそういうルールだから」、「空気読まないといけないから」と、何でもかんでも言い訳がましく受け入れてきてたけど、世間体ばかり気にしてそこに自分の感情がないよね。感情は抑えるべきだと思ったり、自分が感情的になるのを許してなかったところはある(罰というか自制?) そもそも、「私の恋愛観は人と違います」とか言って、「世間みんながそんなことする人間だと思うなよ」って偉そうな口聞いてきたけど、なんだかんだ一番スキンシップ義務にとらわれてたのは私で、男女関係にならなきゃいけないと縛られてたのも私で。でも過去に同姓を好きになってしまったことは嘘じゃなくて。死にたい。泣きながら書いた。でも本音が言えて嬉しいよ。恥ずかしかったけどやっと言えたって、今日先生に陽性転移したきっかけの話した時もそんな気持ちだった。

気持ち悪くて死にたい。そんなことで死ななくてよくても、じゃあ最悪死ななくてよくても、私はこの恥ずかしさをどう折り合いつければいいか分からない。殺して欲しい、他人に傷つけられたい、という他力本願。殺す価値ないからお前なんか。

傷ついて不幸でいたいだけなら他人巻き込むな。私なんか早く死ね。死ねって自分に言ってる時気持ちいいんだろ。キモイんだよ死ねよ。お前の考えてる綺麗な自殺なんかじゃなく、本当の意味で死んで地獄に落ちて苦しめ。死ね馬鹿。生き地獄でもいい。苦しめ。

 

久しぶりに死ね死ね言われたな、自分に。気持ちよかったか?楽しかったか?馬鹿じゃないの。本物の変態じゃん。今日、「僕は、◯◯さんは罰を受けるべき人間だと思いません」とハッキリ言われて、一瞬救いを感じてしまったが、他人巻き込んで勝手に死にたくなって、死にたさにさえ心地良さを覚えてるなら、一生かけて償えやクソ罪人、死ぬのも許さねーよお前なんか、って気持ちです。優しい言葉かけてくださったのにごめんなさい。
久しぶりに死にたいです。でも死にたくなったことが嬉しいです。死にたくないから死なないけど、死を選ばないギリギリで泣いているこのポジションがたまらなく快感です。キモイんだよ死ね。
こんな自分に対して、「いい加減にしてね」と自分で押さえつけてるのも多分快感のひとつで、むしろ他人から「好きにしたら?ちゃんと生きなくていいよ」と言われることの方が絶望なんだろう。どうして?自由って痛いですね。与えられることは幸福なことですね。与えられないと思っているだけで本当は与えられてるのに、私はそれを見たくないと目を逸らし続けて、そんな自分に痛みを与えることで生かそうとしている。
こんなことしなくても生きてていいんだよね。どうしてだよ。そんなの納得出来ません。十字架から開放された私は一体何になれるというのですか?今更どうやって生きていけばいいんでしょうか。そもそも私は何者なんでしょうか。大多数の人は全部自分で答え出せるね。答え出したくなくて、何も考えたくないから、逃げ回っての自傷や自殺未遂なんだね。「お前は情けない人間だ」なんて声をかけると「私」が喜んでしまいそうだから、あえてなんの言葉もかけてあげない。本物の無視を味わって、その先でよりよい生き方を見つけなさい。

不退転

どうしようもない毎日の中で、唯一確かなことは、自分が紡いだ言葉だから、眠りに落ちる直前まで縋ってしまいます。今は自分の言葉にしか救いがありません。書いては読み返し、書いては読み返し、消し、また書き。

 

警告:暴力コンテンツ

 

4月7日

・終活として、いつか私の人生についての卒論でも書こう。でも今すぐにはしない。こんな子死なせるの勿体ないじゃないですか。やっぱり生きて書いて書いて書きまくって、ある日突然死ねばいい。本当は終活なんてしなくていいよ。準備して死ぬより、ある日突然勢いで死んで欲しいんだお前には。ていうか終活としてじゃなく、今この瞬間も人生をかけて何かを書き続けてるんだ。もういいよ、人生から卒業する時、すなわち、死ぬ時にE判定で地獄に落ちても。いや、Eなら死ねないのか。生き地獄か。ともかく、お前が今生きてる世界を大好きな地獄だと認定している以上は、死んだら本物の、本物の本物の恐ろしく苦しい地獄に落とされる。自分の書いたもの好きだから、私の中ではA判定ですよ、だから何なんだよ。

・一生自罰的ナルシストとして生きていくつもりか?そうです、貴方が見届けてくれるなら。好きです。鼻血が止まらないほどに、大好きです。生きたいです。どうしてそれだけじゃダメなんですか。どうしてそれだけじゃ満足出来ないんですか。歪んだものを受け取らなかったらここまでぐちゃぐちゃにならなかったんでしょうか。でもぐちゃぐちゃな自分のことが好きなんです。狂ったまま自殺未遂をするところを見届けて欲しいんです。生きたいので完遂はしません。でも擬似自殺はしたいです。ていうか自分には死んで欲しいんです本当は。本当にそう思ってるのに、大好きすぎて涙が出る。生かしたいのに。好きなのに。なんにも満足できない。終わってる。満足出来ないまま死なないで。

・狂った時に出会った人、私の狂いざまを好きになってくれた人、その人達とも狂ったままで居ないと好きでいてもらえないのかな、と錯覚してしまいがちなんだけど、本当に愛してくれる人は、狂っていようがそうでなかろうが、変わらずに想い続けてくれるはずだ。そしてもう一つ、大事なことは、その人たちの存在に甘え(時に存在を忘れてしまうほどに)、愛されるばかりになってはいけないということ。

・専門家の中には愛情を持って接してくれる人もいると思う。それを本物の愛だと、愛された経験だと思ってもいいけど、あくまでひとつの経験としてカウントする程度に留めておくべきだと思う。それをこの世の全てだと勘違いしたら最後、沼に落ちます。

・彼らはある意味「可哀想だね」と寄り添うことが仕事ではあるんだけど、その言葉をただ口にしてるだけでなく、心から共感してくれたときもあったはずだと、私は信じています。これまでもこれからもお金で結ばれるだけの関係だけど、私はかけがえのないものを手に入れた気持ちでいます。だめですか?

・私が長生きする世界線だと貴方たちがいないことになってしまう。それに耐えられなかっただけです。私は確かに許されたかったけど、本当の意味で許されるような人間になる頃には貴方たちと一緒にいられなくなるんだとしたら、そんなの嫌です。

・愛を持って接してくれた人に対して「それ以上優しくされると好きになっちゃうからやめてください」って突き放して全部台無しにしようとする癖、行動には表さなくなっただけで、心の中では相変わらず「もうこっちに来ないでください(これは貴方のために言ってます)」のまま。何も貴方のためじゃねえ。

 

4月8日

・辛い(オブラート500枚に包んだ表現) 肉体は死にたくないし、26年の人生の幕が降りて本当の意味で終わって欲しくないけど、もう終わったも同然のような精神だし、このままでは間違った何かに導かれて自分の人生を終わらせてしまいそう。擬似自殺して休むことが許されたいのとまた違う。変わりたくもない。ただただ終わりにしたい。殺してくれと泣いている。気の済むまで泣きたいだけかもしれない。家族になりたかった。いや、家族じゃないから、家族になれないから好きなんだろうけど。いや死にてえな。好きって絶望だ。だから、貴方以外の人をとか、専門家以外の人をって、また人を求めるようなことをしてはならない。人と深く関わったらどっちに転んでも絶望です。未来に希望などない。本当に誰とも分かり合えないのに、いや分かってくれる人は確実にいるのに、それを信頼や愛にカウント出来ない私、これ以上を求めてどうするの?どこまでわがままなの?あなたの望んでるもの、本当はもう手に入っているんじゃないですか?安心を与えてくれるのは偽の家族じゃなくて本物の家族かもしれないよ。その愛が私にだけ向けられるものであって欲しかった、とか冷静に考えたら誰だって無理だよ。誰の1番にもなれないよ。少なくとも今執着してる人に関しては、既に大事な人がいる人たちなんだから、お前が入り込む隙なんてないよ。私、既に大事な相手がいる人は好きにならないだろうから大丈夫だ、って油断してた。でもこの現実よ。お前本当に誰でも好きになるんだな。いい意味でも悪い意味でも。いや、「好意じゃなくて執着です」と言ってしまえばそうなんだけど。「パンロマンティックです」って言ったら、「誰とでも恋に落ちるんだねw」みたいなこと言われて、好きな人だけに決まってんだろ舐めんなバーカてめえはこの世の全員恋愛対象か?そうじゃねえだろ、とか思ってたけど、いやある意味本当にその通りだなーって。今の場合、パンロマンティック的な意味で「誰でも好きになるんだね」じゃなくて、私がチョロい人間であるが故の「誰でも好きになるんだね」な。そうなんですよ。男でも女でもそれ以外でもジジイでもババアでも好きになる時は好きになるよ。恋愛じゃあないけどな。恋愛じゃない。ただの執着と依存。「付き合ってください」なんて言わない。「好きです」と恋愛的な意味で伝えることはない。そもそも"恋愛的な意味"って何だよ。お付き合いをするかしないか?一線を超えるか超えないか?一線ってなんですか。度を超えたスキンシップのことですか?身体の関係を持つか持たないかのことですか?そんなの絶対しない。私絶対に誰とも寝ない。寝ないもん。ばーか。馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。私が求めてるのは愛情です。でも愛情って概念的なものだから、形(表現)は人それぞれ異なるのよね。それが(私にとっての)度を超えたスキンシップにもなりうるわけで。触るな。絶対に絶対に触らせない。最悪身体はいいよ。暴力振るうなりお前らの好きにしたらいい。でも心の中は触らせない。心に侵入しないでください。でもこれが逆になる時もある。暴力(=私にとっての)振るわないでよ、そんなことよりも前に心で繋がり合いましょうよ、とか言ってる時もある。意味が分からん。心と体がぐちゃぐちゃすぎるんだけど、これこの先、綺麗に重なることってあるのかな?

・心と体がバラバラすぎる。ねえなんで笑えるの?なんで笑っていられるの?昔、「よく呑気にしていられるな。お前間違ってるんだぞ」って言われたな。いや、出来の悪い私が悪かったのかもしれないけど、お前みたいな人間今頃どっかでくたばってたらいいのになって思っちゃいました。嘘でーす。私ずっとずっと「お前そんなことしてる場合じゃないだろ、何も出来てないでしょ」みたいな、いやずっとじゃなくて一瞬だったかもだけど、あの瞬間、あの時間を永遠に感じてしまったから、私はずっと抜け出せないんです。だから人に対して一瞬「なんで笑ってられるの」って思っちゃって、罪悪感で泣いてしまって、死にたくなりました。笑っていいんですよ。みんな正しくて、みんな間違っているんですから。私、そんなに間違っていましたか。怪我したこと、確かに私が悪かったかもしれないけど、お前が怒った理由は自分の立場を守るためだったじゃないですか。道路に飛び出した子供に「危ないでしょ!」と言い聞かせるのと違って、「俺をがとんでもない教師だと思われるじゃないか。世間からダメな教師のレッテルを貼られるじゃないか。俺の顔に泥を塗るな」みたいな怒り方だったじゃん。すみませんね。怪我の治療費払わせて。私さ、なんか知らないけど怪我ばっかりしてたの昔から。その頃から頭バグってたのかも。ごめんね、また問題起こすまで生きてて。私があの時自殺してたら、学校の名前に傷がついたとか言い出しそうな人間だったな。私がそんな事しなくても、ずっと学校の評判は悪かったじゃないですか。生徒だけが悪いと思いますか。テメーら大人がそうさせたんだよ。そうやってクソな大人のせいでグレざるを得なかった子供たちのせいで被ったストレスを、今度はなんの罪も無い子供にぶつけて憂さ晴らしですか?お前らこそ愚かだ。恥ずかしいね。よくそんなんで先生になれたね。こんな奴を教師として認めた人間にも問題があるよ。パワハラモラハラ人間第一号の腰巾着だったくせに(笑)一号が怒ったら、一緒になって怒らないといけないみたいなところあったでしょ(笑)だっさ。パフォーマンスに巻き込まないで貰えますか?ねえなんであんなところから早く逃げなかったのって思ったけど、逃げるのも許されなかったね。可哀想に可哀想に。れっきとしたモラルハラスメントだ。お前らはまだ生きてるんですか。私が10年以上死にたいと思いながら自殺未遂しながら生きてたことも知らずに、今日もどこかで同じことを繰り返しているんでしょうね。私が死ぬ時は、あなたたちを加害者として名前を挙げたりなんかしませんよ。そういう人たちは「いつも人のせいにして」って言うに決まってますから。生きてる私も「誰のせいでこうなったと思ってるの」と、また人のせいにしてるから、人間はみんな罪人なのでしょうね。F先生が、「自分も含めて全員終身刑」って言ってたのってこういうことですか。恥ずかしいね。下手くそで愚かで劣等生で何もできなかった自分が。怒られる方も悪いのかもね(笑)何も出来てなかったもん。センスなんてなかったもん。でもなんかあの人、私の親には「この子はセンスがある」みたいなこと言ってたのキショすぎるな。私が打たれ弱いせいでセンスを発揮できなかったとお思いですか?お前が「センスある」とか言ったのうちの親に対する媚び売りだろ馬鹿じゃないの。

・ここは優しい人だらけだね。優しくされてびっくりしたでしょ。愛情を向けられてびっくりしたでしょ。これが本来あるべき姿なんだよと言われても信じられないでしょ。信じたくてももう信じられないんでしょ。今、心理士から向けられた同情や共感を愛だと勘違いして、パニックになったんだね。愛情だとしたら、君がそんなんだから受け取れなくて当然だし、仕方ないですよ。共感や同情と考えるとどうかな。少し落ち着けそう?愛って重いよね。共感くらいに留めておくべきなんじゃないでしょうか。たとえ向こうが愛のつもりだったとしても、私が処理できないものに関しては共感と認識する方が処理しやすくなるんじゃないでしょうか。専門家が向けてくるものは間違いなく愛情ではないから勘違いしたらダメだよ。ていうか専門家は愛なんて持ったらダメですよ。愛は人をダメにしますよ。人を良くするのもダメにするのも愛なんですか。皮肉だね。

・そんな私みたいな子が「私の何がいけないんですか?教えてください、治しますから」ってなっちゃうのも当然だと思うし何がいけないの?って思う。それを同級生(14歳)に向けたのは重すぎたし罪かもしれないけど。でもそうなって当然じゃないですか。私は私で更生したかった。本当に更生すべきなのは大人だったかもしれないけど、私だって変わりたかったんです。心から。これは媚び売りじゃないよ。本当に真面目に、真剣に、何がいけないのか考えて反省して自分を責めて、それでも死んで逃げるなんて考えも思いつかないくらい、中学生の私は真剣に生きてたんですよ。そんな心すらも「いい子ぶってムカつく」なんて大人にへし折られて、本当に本当に。お前よく自殺しなかったね。本当に本当によく生きた。色んな人生があるから私だけが偉いわけじゃないし、こんなことくらいで自殺すんな生きて当然だろ甘えるなって思う人もいるかもだけど、私としたら、人生皆勤賞ですよ。学校行けなくても(というかほぼ行ってたし)人生は今のところ皆勤賞ですね。

ねえ生きてていいよ。ろくでもない人間に殺されるなよ。君は自殺は他殺だと言いましたよね。最後に選んだのは自分だったとしても、結局選ばされたってことになるよね、今の場合だって。

愛なんて重いものを求めずに、特定の人にこだわらずに、共感だけを大事に、周りの人も大事に、そうすれば今すぐ死ななきゃいけなくなることなんてなくなるよ、いつかは。

少林寺にそういう教えなかったっけ、と思ってWikipedia見たら、まあ良い教えの宝庫。あの頃、「自己確立」とか教えられても「ジコカクリツ……なるほど(分かってない)」みたいな感じで、漢字としてちゃんとした意味として頭に入ってなくて、本質分かってないくせにただ学科試験のための勉強だけしてて(まあクソガキの理解力には限界があるので仕方ないのかもしれないが)試験だってある程度技とか勉強とかして頃合いを見て、「そろそろ昇級試験受けなよ」ってなるだけで、そう考えると試験の意味ってなんなんだろうって思う。子供が受ける意味ね。大人はいいよ。分かってるだろうから。ジコカクリツは自己確立で、リキアイフニは力愛不二に脳内変換可能だろうから。私がガキだった頃は、大変申し訳ないですが、受けされられてる(受けさせていただいてる、と思いなさい)だけだったんだな……すみません。でも、なんだ。私のようなガキの理解力に誰も最初から期待はしてないけど、大人になった時にちゃんと気づけたこと、何だかんだ「脚下照顧」なんかが10年以上習慣として身についていること、本当の意味が分かる瞬間が訪れること、そう考えると修行してた(させて頂いてた)意味ってあったんですかね。まあ私は、「ジコカクリツ」の意味がわかってなかった人間だけど、毎回涙を流しそうになるほど鎮魂行を真剣に受けていたので(間違った捉え方をしていた部分もあったけど、意味を考えながら真剣に受けていたことには変わりないので)、真面目な部分もあったクソガキだったんだと思います。君が愚かで可哀想だよ。

・子供が怪我をするってそんなに悪いことかな。心配はわかるよ。道路に飛び出した子供を「危ないでしょ!」ってキツく言い聞かせたりするのは分かるよ。言い方悪いかもだけど、怪我して学ぶこともあるんじゃないのかな。最初は歩き方を覚えるところから始まり、顔面から転んで痛くて、次は手を着いて転ぶことを覚えて、そうやっていくうちにおぼつかなかった足取りも段々しっかりとしたものに変わっていく。それは意識してないかもしれないけど、失敗から学んでいるということなんだ。それでも転ぶことってある。大人だって。ただの不注意で何も無いところで?障害物を避けられなくて?誰かに意図的に転ばせられて?転ぶ。怪我をする。事故に遭う。そうなったとしても、「お前は手の付き方も学んでこなかったのか。どうして怪我をしたんだ」なんて言わないでしょ。怪我したらもう仕方ないでしょ。「大丈夫ですか」「大きな怪我じゃなかったのが不幸中の幸い」「命が無事で良かったです」なんて、そういう、そういうもんだろ。子供の不注意ってどうやって治すの?好奇心から来る怪我だったのか、不注意から来る(ぼーっとしてたから故の)怪我だったのか、何にせよ不注意な子(私も)は一生不注意なのよ。それは発達障害かもしれないし、はたまたトラウマのせいかもしれない。でもそうやって不注意に理由があったとしても、そしたら「できる限り工夫をして、気をつけて生きていこうね」にしかならないじゃん。そもそも「危ないでしょ!」みたいな言葉だって転んだ側に向けられたものであるべきじゃん。「お前の怪我のせいで俺の評判が云々」などと言い出して怒る人は、やっぱり人のためを思ってなんかいないよ。今後同じような怪我をしないように気をつけていくべきなら、次に続く言葉ってもっと違うものじゃないかな。まあこんな私みたいな子供には手を焼くよな。ごめんねー、生まれてきて。お前の人生の登場人物になってしまって。生まれてこなかったらこんなに怒られないなら、迷惑かけないなら、私だってそうしたかったよ。産まれてくることって選べないんだよ。産み落として「生きろ、理不尽と戦え」じゃないねん。本当によく考えろよ。おかげで死にたいよ。死にたい人生を送ってきたんだよ。

・正しさじゃなく優しさを選ぶこと。

・遺書に書く言葉考えよーっと。「貴方の人生の登場人物になってごめんなさい」は絶対入れなきゃだな。(追記:躁の時に書いた言葉怖すぎ。遺書とか書いてないし死にません)

・「陽性転移と単純接触効果、関係あるだろ!」とふと思った。

・全員に私の言葉が届くわけじゃない。私を優しい人だと言ってくれる人、あなたが優しいからそう感じるんですよ。私の言葉が好きだと思ってくれる人もそう。魅力を感じてくれる人もそう。ありがとう、私を見てくれて。お客さんが君たちだけでも、私は私に与えられた役をしっかり演じるよ。というか君たちだけでも、なんて失礼だね。人生もShow must go onやな(キモ)

・魚の骨が喉に刺さり、半泣きになりながらピンセットを使って奮闘し、どうにか取り除くことが出来た。ピンセットの先に摘まれていたのは、5mm程の小骨。この小骨のように小さな出来事が、私の心の中でも沢山引っかかっているんだろう。多分無理やり抜かなくても、自然に抜けてくれたかもしれない。それでもどうにかせずにはいられなかった。気持ち悪かった。辛かった。どんなに些細なことでも、私の心を脅かすものをそのままにしておけなかった。お前の人生そのものだね。「死にたい、死にたい」と言いながらも、誰よりも生にしがみついている。不調になった時に飲む薬の量や、一ヶ月の間にかかった病院や薬局の領収書、カウンセリングの予約回数なんかがそれを物語っている。君たちも生きてください。君たちは君たちで生きてください。

・中学校に務めていらっしゃるんですか。いいな。羨ましくなりました。中学生の時に貴方に出会っていたら何か変わっていたんでしょうか。でも私、地獄の果てで貴方に会えたことの方が嬉しいです、正直。私は、年齢だけは大人になったから、なってしまったから、無闇にセーラー服を着たいと願わなくなったし、中学生として貴方に会いたいと思わないんです。

 

4月9日

・地獄からしか見えない景色もあるんだって教えてくれてありがとうございます。でも、最近「地獄とか軽々しく言うな」という君の言葉を素直に聞けるようになった自分もいます。

・「愛は時に人を生かし、時に人を殺す」みたいなことを言ったけど、あれは愛の表現方法が人それぞれ違うからなんだと思う。暴力をふるって「これが私の愛の形です」とかいったら、そいつの中では、そいつの正義上は愛ってことなんでしょう。絶対に許さないけどな。社会がお前を許さないだろうよ。

・「人には人の正義がある」「みんな正しい」を理解しつつある。理解が進んだのは、貴方に出会ったおかげかもしれません。「人には人の正義がある」と信じることで、人そのものを必要以上に嫌いになったり憎まなくなりました。「みんな正しいし、みんな正しくない」と思いながら生きています。後半は自分の言動を省みるための言葉です。そう思うことで、一歩下がったところから状況を冷静に見ることが出来るようになりました。「この人がこういう言動をしたのは、こういうことを信じているからなんだろうな」、「この人の中ではこれが一番大事だからこうなったんだろうな」など。それを素直に自分にも置き換えられるようになった。みんな正しくないから、私も完璧な正しい人間にはなれないということ。正しい人なんていない。誰だって必ず、誰かにとっての敵になるし、誰かにとっての悪になる。自分もそう。数々の人の敵に、悪になってきた。「それならば、その罪を全て背負って死ななきゃいけない」と今までの自分は思ってたけど、「みんな間違えるんだなー、そしてみんな自分の中では正しいことをしたって気持ちでいっぱいなんだろうなー」と考えられるようになった。昨日までは、「どうして間違えるのに堂々としていられるの?」と、羨ましいような切ないような痛々しくて見ていられないような、そんな酷い感情を抱いてしまったんだけど、今は「私が間違ってたな」と思えます。それと、我々が違う人間でよかったって初めて思えた。私が私のことを好きでいられるのは、貴方が貴方でいてくれるからだと思いました。貴方という個性が存在するから、私という個性が存在することも許される。それを尊重していくこと、調和を保ちながら生きていくということ、話し合いを重ね、理解し合おうという姿勢を見せることが大事なんだと思う。人に振り回されすぎですかね?もちろん分かり合わなくていいこともある。

「生きて償う」という、自分がよく使う言葉の意味、今更理解したような(本当の意味で理解したというより、理解が深まった的な?)  モラハラパワハラに関しても、「お前の中ではそういう正義だったんだね」みたいな気持ちに落ち着きつつある。許してはない。お前の正義があることは分かったけど、人道を外れることに関してのジャッジはまた別問題な気がする。「貴方はそういう過去をお持ちだから、私のことをいじめてしまったんですね、仕方ないですね」「貴方は毎日忙しくて大変だから、ストレス発散方法として、我々に暴力を振るうんですね」とかそれは成り立たない(という私の正義)  お前らの正義があることはわかりましたが、間違ったことに関しては世の中がジャッジを下すだろう。時に身近な人間であったり、時に法の世界であったりが、貴方を裁く時が来ると思います。私も裁かれました。多分これからも裁かれます。人間がみんな心の奥の奥の奥底で反省しながら、贖罪をしながら生きていけばいいんだと思います。私みたいに「毎日反省した挙句、罪を償って死のうとする」とか、そういう極端なことは必要ないと思う。生活を守り生きていくということも贖罪だと私は考えます。生きて罪を償わなきゃいけないなら、生活を整える必要があるから。生活を大事に、周りの人間を大事に、そして時に自分を省みる、その程度で十分かもしれませんね。みんな笑っていいと思う。楽しんで生きていいと思う。みんな正しいから。正しくない時に反省できるのが人間だから。

・3月28日の私の日記には「人それぞれ正義が違うというのはこんなにも難しいことなんだと実感した。そしてもうひとつ、こういう時、冷静さを欠いてはいけないなと思った。冷静に話した方が勝ちではないが、正しいか正しくないかをジャッジする時、激情は邪魔になる。」と書かれていた。ねえこれ本当に自分で書いた?信じられないんだけど(自画自賛) 同日の日記からもう一つ、好きな部分を抜粋。「生きる理由、よくよく考えたら「それだけで十分なんだ」ってことが多いけど、死ぬ理由だって同じですよ。「死にたい理由ってこんなことなの?たったこれだけのことで?」じゃないんだよ。それだけあれば十分でしょう。高柳先生だってそう言ってたよね。でも、あんな人の言葉で君の26年を無かったことにはさせないよ。君は死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。死ななくていい。どうか殺されないで。生き延びてください。ここはまだ地獄じゃない。大丈夫。」

・贖罪=淡々とした生活で失敗の上書きをする

・全然関係ないんですけど、こういう気づきを得られた自分が好きになっちゃって興奮して、歪んだ自己愛の果てに、半年ぶりに◯◯しました。何でですかね。地獄にいる自分が好きで、「地獄からしか見えない景色もあるんだって教えてくれてありがとう」と思うくらい、まだ地獄にいたいからだと思います。まあ、ここから天国でここから地獄なんて、線を引いた人は誰もいないし、「天国にいるからいい」とか「地獄だから悪い」とかそんなこともなくて、自分が心地よいと思った方を信じて生きていけばいいんだと思います。それがたとえ地獄であろうとも、地獄を愛して生きていくことが私の正義なら、ジャッジする権利は誰にもないと思います。じゃあなんでカウンセリング通ってるんですかね。まだ解決すべき問題は山積みだからです。これはあくまで今日の気づきであり、変化そのものではないからです。だからまだ、「ここに来なくていい」って言わないでください。

・愛って大きさじゃなくて表現の問題だから、グラムで計れないよね。

・私が故意に身体を打ち付けたり自分で自分を殴っても、これっぽっちも痣なんか出来なかったのに、不注意でその辺の椅子に腰をぶつけた時は簡単に痣が出来た。自分でつけた傷は2日くらいは鈍い痛みがあったけど、ぶつけて出来た痣はずっと痛い。先日、先生に「人間の身体って思ったより頑丈に出来てるんですね。それがいいことなのか悪いことなのか分かりませんが、今の私としては悲しいです」と話したら、「頑丈で良かったんですよ」とだけ言ってくれた。

・今日は久しぶりに貴方とお話したから、貴方と初めてあった頃によくつけていた香水を久しぶりにつけてみたよ。いい夢見れるかな。貴方もいい夢を見てね。よかったら、どんな夢を見たか教えてね。この言葉を後悔して消すことになりませんように。結果がどうであれ、一時的にそんな温かな気持ちになれた自分のことを愛おしく思います。

 

 

脳内私会議

3月12日(土)

自殺寸前の時に書いた日記、凄まじい。こんな状態でよく社会に出てたな、と思う。でも、自分に対して「もう何もせず休みなよ」とは簡単に思えない。休むべきなのは明白なんだけど、何とか休まずに自分の居場所を守りたかったこととか、逃げたくなかったこととか、そういうのが全部分かるから。私は、2年前の私に「全部辞めて休んでいいよ」と言ってあげるのが正解なんだろう。でも、貴方が頑張りたかったこと、諦めたくなかったこと、私は全部分かる。今となっては、命と天秤にかけてまで守るような場所じゃなかったって言えるけど。正直、今も二年前も全く変わってないから、この問題への正解がわからない。ただ昔の自分に「分かる。分かるよ」と言うしか出来ない。これは"言ってあげてる"という感覚ではなく、心からの共感。でもまあ、首吊りが日課になってるのに「社会に出なきゃ」と義務感を抱く必要は無いと思うよ。2年前の私よ。

 

3月18日(金)

今日一瞬だけ、「忘れることが最大の復讐なのでは」と思えた。私はこんなにも傷ついてるのに、こんなにも怒ってるのに、不誠実な人間はみんなのうのうと人生を歩んでやがる。悲しいよ。多分私がどれだけ怒っても何も通じないような人達だから、怒り続けることが無駄なんだと思う。私が無駄に怒り続けている間に、彼らはもっともっと人生を謳歌していくだろうから。言葉の通じない相手に何を言っても仕方がない。彼らは私が望むような形で詫びてくることなんて一生ない。私は、「一生そのままでいれば?」と見下して、「私は私で前に進むから」って変わっていくしかないのかも。「見下す」という過程は余計かもしれないけど、そうでもしないと心を強く保てなくて、すぐに落ち込んだり、自分を否定してしまうから、「私は悪くないんだ」って思うためにはこうするしかない。傷つけてきた人が全員似てて、同じタイプだってことに気づいてイライラが爆発した。偉そうに私の友人を評価してたけど、お前がまさにそういう人間じゃん。馬鹿じゃないの?一言くらい謝って来るだろうと思って残しておいたけど、いつまで経っても既読すらつかなくて、そういうところがよく似てるよ、と思った。私ばっかり1人で強くなるの悲しい。強くなるっていいことなはずなんだけど、多分強くならなくていい部分まで強くなっちゃったよ。私のこと、弱いって評価する意味分からないな。強さと弱さを履き違えてる部分もあるかもだけど、私自分のこと弱いだけの人間だとは思ってないよ。そして許すこと、捨てることも強さのひとつだと思う。今回のこと、許すのは難しいだろうから許さなくていいけど、早く捨ててしまおうね。

 

3月20日(日)

あの頃、本当に毎日がキラキラしてたな。辛くてたまらない時もあったけど、同じくらいキラキラしてたの。当時の私は、貴方が安定剤みたいになってたのかもしれない。変わらずに愛情を注いでくれる人がいるお陰で、私は明日を楽しみに生きることが出来ていたんだ。でも、愛情を受け取るばかりになってなかったかな?私も同じように言葉で返していたつもりだけど(先に与えられたから義務感で返すのではなく、私も心から伝えたいと思ったから)、同じ大きさで返すことは出来てなかった。間違いなく甘えてたよね?明日も明後日もこの先もずっと、変わらないでいてくれると思ってたからでしょ?いつか「ずっと私が変わらないと思ってるでしょ」って言われた時、頭がサーッと冷えていくような、そんな感覚に陥った。助けられていたのは私の方だった。

 

3月21日(月)

・過去、私が書いた文章には努力という言葉がたくさん登場する。努力、好きだね。熱い生き方ですね。でもよく考えて見てほしい。貴方がやってきたことは本当に努力と言えますか。泣きながら絵を描く。自傷行為をしながら絵を描く。「私は弱くないので出来ます」というアピールだな。本当に弱くないなら、ただ目の前のことに誠実に向き合うでしょ。その場から逃げてないとしても、貴方の行いは全て逃げです。でもそんなアピールをしている一方で、「お願いだからもう許していただけませんか」「私が何をしたというのでしょうか」と考え続けていた。絵を描く環境においては私を「許さない」という人はいなかった。創作は、許す、許さないの話じゃないから。でもそれ以前に、心の中にできた許されない感覚を(無意識に)創作の場に持ち込んでしまったことがよくない。犯罪でも犯さない限り、私のことは誰もジャッジできないのに。絵を描くことと許されることはイコールで結びつかないのに、泣いて許しを乞うて、何も言えない雰囲気にしてしまったのは問題である。創作の根底にあるのが「許して」という感情なんだけど、許して欲しい思いをぶつけて表現したとかじゃなく、「何の表現も出来ないので許してください、私は自分が分かりません」「本当はこんなところで絵を描いてるつもりなかった、本当は死ぬべき人間でした」でしかなかった。後者なんて、「これ以上攻撃しないでね」って予防線じゃん。なんでこんなに恥ずかしい人間だったのに、高校大学と出ちゃったかな。

・文章を書いている時だけは全てから解放されていたように思う。許してくださいとか許してもらうために何かを書いたことなんてない。確かに、「許して欲しい」という文章を書いたことはあるけど、それは全然意味が違う。

・死にたすぎて大号泣している中で、はじめて「このままでいいのに」と思った。私、このままでいいのに。私が紡ぐ文章とか、私が普段どんな事でも真剣に考えて最善を求めて生きていることとか、何も悪くないのに。私は私が好きだ。殺したくなかった。死んで欲しくなかった。生きていたいとも思わないが、死ぬのは嫌だった。このままでいいのに、と言いながらしばらく泣き続けていた。江國香織の小説『きらきらひかる』のことを思い出していた。何の取り柄もない、何事も長続きしない私が唯一続けてきたこと。文章を書くこと。自分の書いた文章を読み返すと「この子を生かしておいてあげたい」、「この子に生きていて欲しい」と思う。別人を見下ろしているかのような感覚で。死なないために、会いたい人の名前を紙に書いてみた。紙が涙で滲んだ。これを御守りのように持ち歩こうと思う。

スマホから何の通知もならないことを寂しく思っていたけど、私の言葉が好きだと言ってくれた人がいたから一瞬救われた。でも、別に誰からも評価されてなくても、私は私の言葉が好きなんだよね。その感情が暴走し始めると、「もっと多くの人に見られてもいいはずなのに」なんてよろしくない方向に向かってしまうのかもしれない。承認欲求を拗らせずに、素の貴方が書いた、ありのままの言葉こそ美しいと思いますよ。

 

3月22日(火)

自分のことを愛せない私を、そのまま誰かに愛してもらいたかった。そんな甘えが、未だに心の深い部分に根付いている。あのねぇ、君がそうやって愛してもらうことを人に委ねすぎている姿勢そのものが、愛されない原因なんじゃないですか。

 

3月23日(水)

・「やっと安心できる場所を見つけたかも」って夕方までは思ってたけど、夜になってまた急に不安になってきた。

大丈夫になった部分もあるだけで、全部大丈夫になったわけじゃない。今日帰ってきて、高揚した様子で「初めて泣かずに話せたよ」「初めて目を見て話せたよ」「今日行ってよかった」と語っていた私も真実なのですが、きっとまた揺らぎます。揺らぐ私も真実なのです。「やっと変わろうって気持ちになれたんじゃないの?」「昨日はあんなに元気だったのに」お願い、そう言わないで。言い訳に聞こえるかもしれないけど、今までの人生の苦しみが80分で消えるわけがないんだよ。今日話を聞いてもらった直後は、救いが見えたような、すごくすっきりした気持ちになって、興奮したまま全てを他人に人に伝えて「よかったね」って言われて、私も「よかったな」って思ってたんですけど。今、時間が経って「いやまだ全然大丈夫じゃないんだけど」と自信をなくして不安になってきた。いや多分、「これから大丈夫になっていく。今日その準備段階に入った」ってことは理解してくれてると思うけど、今日帰ってきてからあんなに明るく話してしまったせいで、もう一進一退は許されないんじゃないかと思って。誰にもそんなこと言われてないのに、また訳もなく泣きそうになってる。仕事頑張りたかったのに行くのが怖くなっている。すみませんが、私は今のところ、人生で"持続可能な大丈夫"を手に入れられたことがないのです。私は産まれてから今まで、"大丈夫"だった時なんてありません。でもさあ、そういうことを分かった上で、来週も行こうって決めたんでしょ。そうだとしたら、3月23日午後4時半の私は立派だったんじゃないでしょうか。

・メモ:依存させてくる専門家は不健全である。

 

3月24日(木)

・今日のお昼休みを泣いて台無しにしたら、あとの3日間も全部地獄になっちゃうってことだよ。一度泣くというのはそういうことです。この次は上手くできるかなって不安や焦燥感でダメになって悪循環になるから。死ななくてもいい。「死にたい」「死ななきゃいけない」という感情も、実は自分を守るための手段なのである。昔は自傷という分かりやすい行動に現れていたのが、今は精神的なものに変わっただけ。どっちも自分を守ってる。そうでしょ?生きたくなくなる気持ち、分かります。この世はどうしようもないことだらけ。幼い頃から毎日のほとんどが不安で埋め尽くされてきた君にとっては、ひと時の楽しみや喜びなんかで、不安や恥が帳消しにされることは無いのでしょう。でも好き。死にたいに思いを馳せて生きてることこそが生きがいなんですよね?

あのさぁ、自分のこと嫌いになる時も好きになる時も全てが極端だよね。好きな時、興奮して動悸が止まらないでしょ。実際には出てないけど、精神的鼻血を垂れ流してるような状況でしょ。だから、好きになってもこれだから困るんだよ。こんな極端すぎる感情、普通はポジティブに分類される感情だとしても、何も良い結果をもたらしてなくないですか。自分のこと好きな時も、他人を好きになる時も、一生泣きながら血を流し、そんなボロボロになって生きていることに喜びを見出しながら、「死にたい殺してくれ」ってなってるでしょ。

ウケる。好きだよ。自分で好きだって思えるところこそ、このままでいいって残しておけたらいいけど、頭で「このままでいい」って思ってても、自分の身体は悲鳴をあげてますよね。ボロボロになること、血まみれになること、涙が止まらなくなること、確かに自分を守る手段だけどさ、そもそも「自分を守る手段なんだよ」という考えは、死ななくて済むためだけのアンサーであって、じゃあ実際に社会生活を送らなきゃいけないことに対しては話はまた違ってきますよね。社会には血まみれでは出れないだろうが。

・「何が辛い?」って聞かれた時すぐに答えられなくてごめんね。26年分の悲しみや不安に名前がつけられると思うか?


・「どうしてお昼休みが嫌いなの?」

「ご飯が食べられないから」

「ご飯は絶対食べなきゃいけないものだと思う?」

「心配されるから」

「ご飯食べられないことで(それだけじゃないにせよ)君が死にたくなること、本当に死のうと行動を起こす方が、余程心配だよ」

「ご飯を食べると泣いちゃうから」

「泣いてもいいよ。食べてもいいし食べなくてもいいし、グラウンディングが上手く出来なくても自分を責めなくていい。こんな状況になっても薬飲めない事を責める必要はない。今、君の身体はお薬以外の救いを欲しているんだね。こうしたい、ってことはある?」

「何もしたくないです。気の済むまで、休ませてください。1時間ほどで済むかもしんないし。もう嫌です。私の「死にたい」は「もう嫌です」なのですか?そっちの方がもっと嫌なんだけど。触らないでください。でも話はしてください。そのうち私が喋れなくなっても責めないでください。ずっと一緒にいてください。踏み台にして自分だけ元気になるのは嫌だけど、貴方は物語の登場人物だから、私が貴方にしてあげられることなんてないし、それが物語の中で貴方に与えられた役なのだとしたら、それでいいって思ってもいいですか。ねえ」

応答無し

 

・「ホッとしてる時に涙が出るなら辛いよね、本当は休まるべき時間に休めてないよね。一日の中に休める時間、ないんじゃない?」って見抜いてくれてありがとう。

・君が今日一日を生き抜くために選んだ洋服もメイクも香りも、カバンに忍ばせた飴玉も、音楽も、泣いたら全部台無しになるって思うから辛いんだよね。でもこれ書いてるうちに泣いちゃったわ。残念でした。さよなら。もう泣いた事実は変えられないんだしそれでよくね。別に台無しなんかにならないよ。台無しにさせないよ。私にその力がなくても、私の中に生きてる人たちが台無しにならないように、暗い水の底から引っ張りあげてくれるよ。でも助かりたくもないんだよね。ずっとこのままで、死ぬことも無く、生きる希望も持たず、死ぬための行動も何も起こさないまま、死にたいを支えに生きていきたいんでしょ。そうしなさい。生きなさい。正しく狂った姿。何が悪いんですか?

 

・「ねえ泣いちゃったじゃん、お前のせいで台無しだよどうしてくれんの?」

「私は詩音ちゃんのためを思って、詩音ちゃんを守りたくて泣いてあげたんだよ」

「あーお得意のそれ。誰かのためを思っての行動、得意だよね。時に厚かましいくらいのそれ。君はそういう人間でしたね。あーはい。好きでもあり嫌いです君のそういうところ」

 

・どうにかしたいのにどうにもなりたくなくて、どうしたらいいのって考えたんですけど、「君がそのままでいるために、ちょっとだけお手伝いが必要だから、そうしてるだけだよ」ということなんですよね。これからやろうとしてることは。「僕は君を無理やり変えようとしてない、君の"そのままでいたい"という願いを叶えるために、君が気付いてないことに対して、ちょっとだけヒントをあげに来ただけだよ」そういうことですよね?

・今日仕事するために来たんであってご飯食べるために来たわけじゃないから、お昼食べれなくても大丈夫。

 

・「学校の保健室って何のためにあると思う?」

「怪我した時や体調悪くなった時にすぐ駆け込めるように。特に子供だと、1人で家に帰って休むってことが難しい時もあるし、一時的な避難場所として?子供と病院が直接繋がるのは難しいからその橋渡し的な役割として?」

「じゃあ社会に保健室がないのはどうしてでしょう」

「大人は自己判断で休んだり病院に行けるから。言わば、自己判断でそういうことが出来ることが大人なのだと思う」

「君は子供ですか。大人ですか」

「大人になりたくなかった子供かもしれません」

追記:そういえば、会社にも産業医産業カウンセラーが配置されてるところもあるってことを思い出しました。今の今まで忘れてました。でもさぁ、本当に会社の中に"保健室"なんかがあったら今すぐ全てを辞めさせられるよ。保健室という逃げ場が無くなったおかげで戦えるようになった部分もあるのではないですか。

春の引力

春という季節ともう一人の自分に殺されかけている。遺書を書かされそうになっている。

 

 

まず春の話からしよう。

春。この季節特有のそわそわ感のようなものを感じませんか。気持ちが落ち着かないだけじゃなく、身体もそわそわして気持ち悪い。春は、喜びの後ろに絶望が隠れているような感じがする。

でも、私の中の2月〜3月って、キラキラした思い出がいっぱいな筈なんだよね。夜、なかなか眠れなくて「明日バイトなのに起きられなかったらどうしよう」と思いながらベッドの中でドビュッシー聴いてたこととか。朝舞台のDVDを観てから学校行ったり、夜にひたすらレポート書いたり。お泊まり会して朝からホットケーキ焼いたり。大森靖子さんの音楽を聴きながら夜行バスで東京に行き、大好きな映画監督の映画祭やAKIHIDEさんのコンサート行ったり。

こんなにも美しい思い出でいっぱいなのに、同じような季節が巡ってきた今、どうしてこんなにも不安でいっぱいなのか。漠然とした恐怖感や焦燥感が湧き上がってきて死にそうになってる。何かが隠れている気がする。何か重大なことを忘れてしまっている気がする。気持ちが落ち着かないだけじゃなく、身体もそわそわして気持ち悪い。何かが身体を突き破って出てきそうな謎の感覚がある。


今日、お店で香水売場を覗いた際、とある香水の香りをかいだら、変なフラッシュバック起こしそうになった。何の匂いなのか全くわからなかったけど(知識がないので言葉で表現できない)、どこかで嗅いだことがあるような気がした。涙腺が刺激される香りだった。売り場から離れた今はもう忘れてしまったけど、その時は本気で怖かった。

別の香水からは、大学時代の春の匂いがした。そういう幸せな記憶すらうっすら恐怖を感じる。漠然とした恐怖感にしろ、幸せな気持ちにしろ、何かのきっかけでそれが突然呼び起こされて体にダイレクトに流れてくる感覚は気持ち悪い。キャパオーバーで死にそうになる。


どうしてこんなにも春に恐怖を感じるのか、原因を突き止めたくてずっと調べ続けていたところ、こんな情報にたどり着いた。3月は月別自殺者数が最も多く、自殺対策強化月間にもなっているんだとか。知らなかった。5月(いわゆる五月病)か9月(夏休み明けに行けなくなるあれ)かと思ってた。

世の中のあらゆるものが生命力に溢れてキラキラしているのになぜ?と思ったが、この季節特有のキラキラ感と(例えば「春だから新しいことを始めなきゃいけない」とか)、どうしようもない自分のギャップに耐えられなくなる人が多いんだとか。今日ばかりは、私だけじゃないんだな、と思えた。


まあほっとしたのも一瞬だけで、恐怖感は消えないし、毎秒泣きそうになるし、だから何?って感じ。久しぶりに抗不安薬を飲むことになってしまったのだが、「薬を飲むのは気持ちを紛らわせているだけで、不安そのものが消えるわけじゃないのにな」と虚しい気持ちになってる。でも、夜になってどんどん明日に近づいているのが怖いな、と思ってたら、無意識に飲んでしまっていた……なんてブレブレなの。


昨日、過去記事( 樹海の涙 - 人形の夢と目覚め )を読み返していたらこんなことを書いていた。


切ない夏の終わりも通り過ぎて、ようやく秋の訪れという感じがしますが、金木犀の香りを感じると泣きそうになる。秋の訪れ、幸せなはずなのに。今の時期、気温も高くなくて過ごしやすいし、昼下がりに陽の光に包まれる時間が心地よいなと思えるんだけど、同時に物凄い絶望感に襲われる。思い返すと、過去のこの時期はいつも学祭の準備とかワクワクする予定が沢山あって、秋は毎年キラキラ生き生きしてたはずなのに、どうしてだろう。全てが穏やかなのに怖い。幸せなはずなのに、自然の美しさを実感する度に泣きそうになる。何か重大なことを忘れている気がする。「季節の変わり目に調子が悪くなる」とはまた別の漠然とした絶望感。


「春が怖い。絶望と隣合わせの季節だから」とか言いつつ、去年の秋も同じこと言ってるじゃん。私は年中なにかに怯えてるんだね。

 

 

春の話はこの辺にしておいて、"もう一人の私"の話をする。


やっぱり私の頭の中に、私を殺そうとしてくる私がいる。ことある事に、もう一人の私に「死ね」とか「今すぐ遺書を書いて自殺しろ」とか「早く飛び降りろ」と言われる。仕事中や眠りに落ちる直前にもやって来る。最近私が死にたくなったのは、自殺しそうになったのは、私が死にたかったからじゃなくて、もう一人の私に殺されそうになったからです。


私、ずっと「死ね」って言われてる。もう一人の自分に。こんなこと、他人に言えるわけがない。心の中にもう1人の自分がいる、なんて言ったって通じるわけが無い。(調べてみたらそんなに珍しいことでもないらしいが、少なくとも私の周りの人には打ち明けられそうにない)

まあ、他人に「もう一人の自分に殺されかけている」なんて正直に言わなくても、ちょっと弱音を吐いたりすることはあるじゃないですか。そうすると決まって「あなたは自分で自分を苦しめてるだけ」と言われる。確かにその通りですけど、私は別人に追い込まれたような気持ちなんだよ。特にこの「死ね」「自殺しろ」と言われてる時は、私が私じゃなくなったみたいだよ。

毎日「死ね」って言われてる時期もあるし、たまにそういうのも忘れて楽しく過ごせてる時があっても忘れた頃に「死ね」って言いにやって来る。特に後者の絶望感ったらない。「随分楽しそうね。自分が死ななきゃいけない人間だってこと忘れてた?今、思い出した?今の今まで随分ぼーっと好き勝手に生きてきたのね。でもそんな生活ももうおしまいよ。早く死んでね」っていつもやって来るの。もう一人の私がね。貴方誰なの?

こういうのを専門家に相談すると、「それは過去にあなたを追い込んだ人だよ」と言ってくるけど、別に「死ね」とか言われてないし。私を一番傷つけた人は「死ね」とは言わなかった。私に「死ね」って言った人は話にならないくらい幼稚な人間だった。じゃあ誰?「死ね」って言ってる人。やはり私自身じゃないのか。他人の何てことない言葉を勝手に「死ね」に変換したのは私だから。

先生からは「あまりにも辛い出来事は、記憶が抜け落ちたりすることもあるの。思い出せないだけで本当はそんなことがあったのかも。そうじゃなかったとしても、子供時代の貴方はいつも安心出来ない世界にいたのかも」と言われた。そうなのかな。


因みに、もう一人の私からは常に「死ね」と言われてるけど、自分以外の他人からもそう思われているような気がしてならない。というか、他人と接している時は、いつも「殺される!」と思いながら生活してる。これも最近になって気付いたけど、本当に昔からだな。いちばん古い記憶でも中学の頃から。私は本当に何に対しても自信が無くて。仕事の能力みたいな具体的なことじゃなく、この世界に存在してること自体がもう何かの間違いなんじゃないかって思ってるんだけど(生きてる価値がないとよく言われるので)、そんな気持ちで生活してるから、ちょっと呼び止められるだけで「何だろう、何かしちゃったかな?」と身構えてしまう。特に職場や学校だと、上司や先輩に話しかけられるだけで、私が劣等生だからきっと今からなにか酷いことを言われるんだって想像して勝手に固まってる。でも、出来てない部分に対する指摘とかなら分かるよ。それはもう怖いとかじゃなく、「教えてくださってありがとうございます」でしかないし。私が想像して恐れてるのはそんなことではなく、自分の人格を傷つけられるような言葉を投げかけられること。

いや、こんなことを想像するのは相手にも失礼だってことはわかってるつもりなんだけど、指摘以上に「死ね」とか「殺すぞ」って言われるんじゃないかと思って怯えてしまうんだよね。「本当に生きてる価値ないね」とか「何もかもダメだね」みたいな。

「こんなこと言われた過去があったっけ?」と記憶を辿ってみたけど、「死ね」「殺す」の類はないけど、「お前はダメ人間です」みたいな刷り込みはずっとされてきたかもしれない。なんかもう無意識に、「こんなことしたら殺されちゃう」って思考になってる。でも、「殺される」って考える度に怯えて何も手につかなくなるわけじゃなく、殺される運命は受け入れた上で冷静に「ちゃんとしないと殺されるからね」と淡々と作業してるみたいな。何なんだろうこれ。いつも殺されるばっかり考えて疲れた。

 


こんな風に、ふとした時にもう一人の自分に「今すぐ自殺しろ」と言われたり、「もうダメだ終わった、殺されてしまう」と思ってしまったりするんだけど、その度にもう一人の自分に「今死ぬわけにはいかないんです」と語りかけている。「今死ぬと迷惑かけるから(死に場所が相応しくないという意味で)」とか、「私は死ななきゃいけないほどの罪を犯しましたか?」とか(考えすぎて"死刑"と検索したことがある)、「死ぬとしても、せめて会いたい人に会ってからじゃだめですか?」とか。こうやって挙げてみると単純でくだらない理由で説得を試みているようだけど、本人としては必死なのです。

 

最終的に、「この身体は私のもので、私に決定権がある。別の私を殺そうとしてくる誰かのものではない。いくらもう一人の私に死ねと言われても、意志を持ってこの体を動かせるのは私だけだ」と言い聞かせる。とにかく何度も言い聞かせて、もう一人の私が心の奥に引っ込んでくれるのを待つ。どれだけ泣いても、薬に頼っても、最終的にもう一人の自分が心の奥に引っ込んでくれたなら、私の勝ちです。多分。

 

病院で「こんなふうに戦って、今回も何とか死なずに済んだ」と話すと、先生は「本当によく頑張って生き延びたね。今回もとても苦しい思いをしたかもしれないけど、貴方は本当にどんどん強くたくましくなっていますよ」と優しい言葉をかけてくれる。

こういう優しいこと言われると、泣くほど嬉しいんだけど、今度からこれをちゃんと先生の顔を見て話を聞こう、と思う。ずっと下向いて話したり聞いたりするのも結構だけど(泣きすぎて顔をあげられないのも分かるけど)、「本当に私は生きのびてよかったんだ、私を認めてくれる人はいるんだ」と先生の言葉を正面から受け止めないといけない。言わせるだけ言わせて、暫くしたらまた落ち込んで泣いて、「もっと言ってください、もっと私を肯定してください」を繰り返すのは本当に駄目だと思う。私は今までそうやって甘えてしまっていたと思う。優しい言葉をかけてくれる先生に甘えてばかりではいけない。誠心誠意伝えてくれた言葉を信じる努力をしなければいけない。凄く難しいけど。

嘘つき

なんか飛び降りたいくらい疲れた。全部辛い。全部無くなればいいのに。どうにもならないことばっかり。でもそのどうにもならないこと全てが自分の身に降りかかったわけでもないのに、当事者以上に絶望して、当事者以上に「とても抱えきれないから死にたいです」ってなってる自分が一番嫌い。そう。自分のこと嫌いだから死んで欲しい。こんな理由で世界から一抜けたしようとしてるのもばかみたい。

無力感を抱いて死にたくなったわけじゃないと思う。私は結局、面倒事から逃げたいだけなんだ。自分のことで精一杯だった心に他人の問題まで入ってきて、それに後押しされて「あとは死ぬだけ」になっちゃっただけだ。そもそも、毎日何不自由なく生活できてるくせに他人の一挙一動に勝手に傷ついたり怒ったりしてる私みたいな人間、一番要らないだろ。死んだって困らないだろ。例え、死んで困る人がいても、そんなの一瞬じゃん。私が死んで一瞬悲しむだけだ。一瞬でも悲しませるとしたら申し訳ないけど、私は私が生きてることが悲しいし辛いし腹が立つし恥ずかしいし困る。今困ってる人、傷ついている人たちは、どうにか救われて欲しい。君たちはこの先もずっと安心して生きていくために、何かに頼って助けられるべき。

でも私は、私が生きてると困ります。私は自分が助かって欲しくない。もういいです。これを書き終わるまでに僅かな希望とか期待が全部無くなればいい。だから早く何もかもゼロになって死んでください。分かったか?かなびの卒展に行った帰りにでもそのまま死ね。絶望して死ね。得意だろうがそういうの。

 

 

 

ここからは私本体が書きます。

私ってずっと「死ね」って言われてるな。もう一人の自分に。「自分で自分を苦しめてるだけ」って確かにその通りですけど、私は別人に追い込まれたような気持ちだよ。私いつも「死ね」って言われてるの。毎日「死ね」って言われてる時期もあるし、たまにそういうのも忘れて楽しく過ごせてる時があっても忘れた頃に「死ね」って言いにやって来る。特に後者の絶望感ったらないよ。「随分楽しそうね。自分が死ななきゃいけない人間だってこと忘れてました?今、思い出した?ふーん。今の今まで随分ぼーっと好き勝手に生きてきたのね。でもそんな生活ももうおしまいよ。早く死んでね」っていつもやって来るの。もう一人の私がね。貴方、誰?私なの?私じゃないの?

こういうのを専門家に相談すると、「それは過去にあなたを追い込んだ人だよ」と言ってくるけど、私別に「死ね」とか言われてないし。私を一番傷つけた人は「死ね」とは言わなかった。私に「死ね」って言った人は話にならないくらい幼稚な人間だったし、私はその場で決着つけたから引きずったりしてない。じゃあ誰?「死ね」って言ってる人。私自身でしょ。他人のなんてことない言葉を勝手に「死ね」に変換したのは私でしょ。そうです全部お前が悪いんです。死んでくれ頼む。こんなこと書いて自分を説得させようとしてる今(説得ってどっちの方向にだろう)、ずっと泣いてるのも凄く滑稽で気持ち悪いよ。これ以上恥さらしたくないなら答えはひとつだよね。会いたい人がいるから死ねないのなら、腹を括って会いに行きなさい。早く死ぬためにも。

 

 

さっきまで全部本当だったけど、言葉にしたら八割くらいうそになった。死なないですよ。死ねないもん。馬鹿だから死に方とか分からないし。

終焉

一年前の夏に陽性転移を打ち明けてから少しずつ良い関係を築けてきたと思っていたのに、また最近になって全てが逆戻りしてしまった。

 

数日前に「何でいつも病院から帰ってくる時だけ泣いてるの?」と指摘されたことが、自分の異常性に気付くきっかけだった。

診察で先生に嫌なことを言われたわけでもないのに、いつも泣いてしまう。毎回"話してるうちに気付いたら泣いてた"って感じだったんだけど、"先生の前だから安心して泣ける=先生を信頼している"ってことだと思ってたし、"普段泣けない分デトックス的に涙を流している"という感覚だったし、何より"病院が安心できる場所である証拠"だと思っていた。でもシンプルに先生に甘えていただけだった。こんなこと他人の前じゃ絶対しないもん。"悲しい話、辛い話をしてるうちに泣いてしまった"っていうのも勿論あるけど、結局泣けば先生が優しく慰めてくれるから、無意識のうちに慰めを求めて涙を流してただけかもしれない。

私は今までまともに他人と人間関係を築いたことがなかったから、先生との関係で生じた好意も愛情も不安も不信感も怒りも悲しみも嫉妬も、全部いつか先生以外と関係を築けるようになるための訓練だと思ってた。お金を払って訓練してるような気持ちだった。先生のことが好きすぎて日常生活がままならなくなる度に「どうしよう、何で私ってこうなんだろう、結局転移って何?どうすれば落ち着ける?」と取り乱していたけど、頭の片隅では「今まで他人に出来なかったことを先生にぶつけてしまってるだけ」と冷静に状況を受け入れている自分もいた。まあ激しい感情って理屈じゃどうにもならないから、頭で分かってるつもりでも毎回パニックになるんだけどね。
繰り返しになるが私は、お金を払っているからこそ成り立ってる関係だって理解してるつもりだった。私が毎回の診察で取り乱したり泣いたり長々と話を聞いてもらったりするのが、支払った料金で賄えているのかは不安だけど。

「先生が好き。先生が居ないと私はダメなんです。何もかも不安なんです」と、四六時中先生のこと思い浮かべてるけど、私は別に先生とプライベートで会いたいとか思わないんだよね。病院でお金を払って会いたい。病院の外で仲良くなりたいと思わないし、連絡先を手に入れたいとも思わない。むしろプライベートで偶然会ったりしたら心臓もたなくて失神すると思うから会いたくない。以前、先生が私の新しい職場に興味持った様子だった時も(来ないで……)って祈ってたくらいだし。何でだろう。
プライベートの私を見て安心されて、「元気そうだね(もう私の診察は必要ないね)」と思われるのが怖いのかもしれない。こんなの他人に知られたら「治す気ないの?」とか「元気になりたくないの?」とお叱りを受けそうだけど、私自身治療には前向きなつもりだし(本当に治す気なかったら症状も訴えないだろうし、そもそも病院だって行かないかも)、辛かったり死にたかったりで泣くのも現状を変えたいからだと思ってる。ただ、私自身が「よくなりたい、まともな生活を送れるようになりたい」とは思ってる一方で、「私は幸せになる資格がない」と幸せを拒んでいるところはあるかも。無意識に遠ざけてる感じ。
 

でもさ、去年の夏、先生は「色々と軽率なことをしてすみませんでした」って謝ってきたけど、特別扱いしてくるから勘違いしたんだよ。

 

 

 

やっと自分でも納得できる生き方を見つけたと思ったのに、結局現実世界でまた先生に依存、執着し始めた。頭の中で想像してる先生は、多分私の期待やイメージ、理想が入り交じってて、もはや本物の先生とは全く違う人になってるかもしれないけど、何故か頭で考えるだけでは全く満足出来ず、現実世界の先生にも没頭して、触れ合い(精神的、物理的含む)を期待し、甘えまくって生きてしまっている。

私のような愛情や触れ合いに不慣れな人間にとっては、こんなことは経験しない方がマシだったんだよ。一回きりのハグで安心感なんて得られるわけがない。それどころか、もっと、もっと、とエスカレートしてしまうに決まってる。触られた瞬間に一度でも喜びや安心なんかを覚えてしまったら、その先 私は"ずっと触れ合ってないと安心できない人間"になってしまう。
先生に対しても「そんな私に軽率に触れて、私がエスカレートしたり狂ったりするって想像つきませんでしたか?貴方はプロなのに」と問い詰めたくなる。身勝手ではあるけど「責任取ってよ」と叫びたいくらいの気持ち。でもそんなこと絶対に言えるわけないし、言ったところで責任なんて取りようがないから、私はいつも人と出会った瞬間から「私のことを簡単に好きになったり触ったりしないでね。だって責任取れるわけないんだから」という気持ちを抱いている。だから、何の断りもなく拒否も出来ない状況でいきなり体に触れてくる(触れさせた)のは、今考えるとキツかったな、と思う。

責任とるって自分で言っておきながら何なんだろう……とも思うけど、無理やり言語化すると「保護者のように近い関係になって欲しい」とか「いつもそばにいて欲しい」なんて表現が近いのかな、と思います。 
でも、どんな人相手でも(家族も配偶者も友達も恋人もその他諸々)、いつまでもずっと一緒にいることは出来ない。私が望むような"永久保証の安心感"なんてどこにも存在しない。だから本当は誰も責任なんてとれないのだ。「責任取って」、なんて考えが浮かぶことが馬鹿げている。
世の中大勢の人はこんな不健全な気持ちを抱くことなく、永遠など存在しないことをちゃんと理解して、今を大事に生きていってるんだろうな、と想像する。
今までは、「永遠が存在しないなら絶対に誰よりも先に死にたい」と思っていた。でも今はそんな簡単に死を選びたくないと思ってるし、いつか関係が切れた時に本当に自殺で死ぬ勇気があるとも思えない。本当はそんなことしたくないけど、耐えられなくなったらそれしか道がないのかな、なんて考えることがある。自ら死なずに生きるとしたら(何だかんだそういう未来になってしまうと思うが)、その頃はまた別の誰かに依存してそうな自分がいる。それが嫌だから何もかも投げ出したい。

 

何と情けない人間なんでしょう。毎日泣いてる。でも最善を尽くそうと努力はしてる。先生だって「頑張ってるね。大丈夫だよ」って言ってくれた。事実を淡々と書いたつもりだけど、傍から見たら言い訳ばかりで痛いよね。別に誰かの為に書いた訳ではなく、自分のために記録しただけだけど。もういいです。私は先生に甘えてるだけの我儘人間です。ちゃんと認めて、そこも含めて治療します。

 

記憶の固執

先日、突然小学生の頃の記憶が蘇った。そういえば私小学生の頃から死にたいと思っていたなって。

ある習い事の稽古のたびに「死ななきゃいけない」と思って泣きそうになってたことを思い出した。今の私の希死念慮ほどではないけど、「自分はこの場にいてはいけないんだ」とはずっと思ってた。小学生の頃からクソ真面目だった&既に人生に絶望してたから、習い事の教えも真面目に捉え過ぎて「私のようなゴミが習う資格はない」とか「もう私人生終わってるな……」と稽古の度に落ち込んでたんだよね。別に習い事の教えには「ゴミが習う資格無し」とか「お前の人生終わり」なんて全く書いてなくて、私がめちゃくちゃねじ曲がった解釈してただけなんだけど、当時の私の年齢だとただ流れ作業のように読んでてもおかしくないのに、凄い真面目に意味考えながら読んで、果ては人生に絶望してたの切なすぎるし可哀想。昔の自分が面白くて笑ってたら、お母さんには悲しい顔されてしまったけど。小学生の時は流石に自殺考えたことなかったけど、「本当は居たらダメ」「悪い子なので裁かれるべき」とは思ってたし、いつか自分のゴミ人間ぶりがバレたら習い事も破門になるかも、と本気で悩んでた。でもそれは自分の過去の行いのせいなんだ。一生背負うほどの過ちを犯したから当然の報いなんだと思ってた。当時は「死ぬ」とか「死んで詫びる」という選択肢がなかったから、どうにか生きて償う方法を考えてた。「出来れば全てがなかったことになればいいのに」とは思ってたけど、それは無理な願いなので。

 

今日、先生に「私小学生の頃から死にたかったんです。その頃は自殺なんて選択肢があることを知らなかったけど、ずっと生きてちゃダメだ、とか、自分はここにいてはいけない、と思い続けていました」と打ち明けてみた。「死にたい」と言っても、今の私が抱く「死にたい」とは全然種類が違うけど。

 

小学生の頃は、さっき書いたことと重複するけど、まだ「生きてちゃいけない気がする……」で留まってて、それが「じゃあ死のう」には結びつかず「生きて償うにはどうしたらいいか」という風に考えることが出来ていた。(今までの人生の中で一番偉かったのでは……)


中学生の頃は、基本的に毎日憂鬱だったけど、まだ本気で自殺までは考えていなかった。学校や部活の前日に3階の窓から地上を見つめて「今飛び降りたら明日行かなくていいのかな……」とか思ったことはあるけど、そんなの夢みたいなものだったし、なんなら「死んだら幽霊になって◯◯(推し)に会いに行きたい……外国に行くのもいいな……」なんて呑気に考えられる程の余裕はあった。(当時某バンドと某映画が生きる理由だったんだけど、生きて会おうとは思わずに幽霊になって接触を図ろうとする私の弄れぶり)


高校生の頃から、本格的な「死にたい」が芽生え始めた。「学校で孤立するから死にたい」とかではなく、理由のない「死にたい」だったから余計混乱した。毎朝駅のホームで「飛び込みたい飛び込みたい飛び込みたい死にたい死にたいどうしようどうしようどうしよう」って狂いそうなほどイライラしてたけど、まだ実行する勇気なんかなかったというか、「いくら死にたくても線路飛び込むのは怖い、痛すぎるし無理。じゃあ他に方法ないから生きるしかないのか。あぁ、線路に飛び込む勇気さえあれば……」みたいな感じだった。

 

小中高、ずっと希死念慮抱えてて暗黒時代すぎない?と自分でも思うけど、全部「死にたいな〜まあ無理だけど」で終わらせることが出来ていて、計画も夢のまた夢だし、実行なんて考えたこともなかった。いくら「死にたい」と思っていても自分でそれを決められるとは思ってなかった。勇気がなかっただけだけど、勇気があったとしたら実行してたのかな?多分してないだろうな。「死にたい」を抱えながら生きていく、という選択をしていた気がする。

 

大学も引き続き「死にたい」しかなかったけど、高校生の頃よりもさらに明確な思いが芽生え始めてた気がする。高校生の頃に芽生えた「自分への殺意」、それを実行に移そうとした。「死ぬしかない」と思って高いところに昇って窓を開けて地面を見つめたりした。文章に表すと大したことない行動に思えるし、自分でもレベルが低いなと思うけど、その時の気持ちは、中学生の頃の生ぬるい「死んで幽霊になろうかな〜」とは比べ物にならない程で、はっきりと「もうこれしかない」と思った。でも無理だったので「飛び降りれなかった」と泣きながら保健室の先生の所へ行った。私は保健室に居ないと狂うから、保健室が好きでした。


社会人になったら、ついに「勇気がない」というラインを超えてしまう。未遂の未遂もいいところみたいな、「結局自分への殺意もそんなものかよ」くらいの行動でしか無かったけど、首吊り一歩手前まではいったし(自殺未遂ではなく自傷行為という感覚だったので一歩手前とする)、死ぬ気はなかったにせよ衝動的に飛び降りてしまったりもしたし。毎年確実に自殺へと近づいている気がする。いや、別に死にたくはない。私の中の誰かが私を殺そうとしてるだけで、自殺せずに生きれたら、寿命が来るまで死について真剣に考えずにすんだらそれが一番幸せだと思いますよ、私も。今、全然死ぬ気ないけど、毎年妙な勇気を身につけてしまっているので、いつかやりかねない気がして怖い。余談だけど、私は薬は怖いので死ぬなら飛び降りがいいな。次に就職するところは建物が2階くらいまでしかないところにしようかな。大真面目に言ってる。高層ビルの会社に勤めて間違いを犯したくないんだ。私だって自分に殺されたくないもん。

 

こうやって過去を振り返っていると、色々最悪すぎて「その時死んでおけばよかったのでは」と思うことが沢山ある。過ぎ去ったことなので、振り返って過去の過ちを全部背負って今死のうとは思わないけど、今の気持ちのまま〇歳だったら死んでてもおかしくないな、なんて思ったりする。それでも、大学生の時に校舎で死ななくてよかったと思う。大事な母校を事故物件にするわけにはいかないし。

 

先生が、現在の私に対して「傷ついたことや死にたいと思った事実は変えられないのだから、否定せずに受け止めればいい」という言葉をくれた。これは昔言われてハッとした言葉の一つ、「死にたいは死にたいで終わらせて。闘わなくていいよ」と一緒なのかも。今までの私は、慣れっこのはずの傷つき体験や希死念慮とぶち当たる度に大騒ぎしてたけど、もういちいち「どうしよう」と思わずに、「まただな」と思えばいいのか。悲しくなるのは仕方ないとして。虚しい。泣きわめいて死ぬか生きるかで葛藤する方が真剣に生きてるような気がしてた。でもそんなことはない。そんなことしてたら身が持たないから、諦めて死んだ目で毎日過ごせばいいのか。……

 

全然関係ないんですけど、先日「花蜜(ネクター)」の語源を知って、ちょっと感動しました。よかったら暇な時に調べてみてください。

樹海の涙

大丈夫じゃない。本当は大丈夫なはずなのに、何故かいつも絶望している。死ぬことというか「自殺」というものの引力が凄い。踏ん張ってないと向こう側に引きずり込まれそうになる。


死にたくないけど生きていたくもない。どちらかと言うと死にたくないが勝っているので、何とか命を伸ばしている。昔は死ぬ勇気が欲しかったけど、今は生きる理由が欲しい。

でも、その一方で、漠然と「もう終わりだ……」みたいな気持ちになっている。死にたくない。かといって元気に生きていく自信がある訳でもない。元気じゃなくても命がある限りは強制終了しなくてもいいでしょ、と思えるようになった自分もいる。(これが自分の全てではない)まあ、自分がどうしようもない人間だということに変わりはないけど。「生産性がない」って嫌いな言葉だから極力耳に入れずに生きていきたいけど、自分がまさにこれに当てはまるから落ち込んでしまうし、生きててすみません……みたいな気持ちになる。生産性なくたって生きてていいのに。

ふとしたことで傷ついて、死ぬことを考えて現実逃避してしまう。実際に行動に起こさなくても、死に思いを馳せるだけで幾分か心が軽くなる。辻村深月の小説、『オーダーメイド殺人クラブ』の「来年までに、私は、徳川に殺してもらえる。殺してもらえる、殺してもらえる」「私は、徳川に殺してもらえる」「殺してもらえるから、大丈夫!絶対、大丈夫」(300頁)を思い出す。希死念慮から離れて明るく元気に生きていくのは、多分無理。むしろ、「死にたい」を支えにして生きている。支えが無くなった時にこそ死ぬ。私のこと殺したい人はどうぞ「死にたいとか言うな」って説教してみたらいいと思う。

なんかたまに「どうせいつか死ぬよ」とか言われることあるんだけど、そういうこと言われる度に、「違うよ、何も分かってないんだな。別に分かんなくていいけど、いつか寿命が来て死ぬことと私が願う死を一緒にするな」って思う。違うんだよ本当に。分かんなくていいですけど。

ああもう、何かに押し潰されそう。

 

 

お盆の終わりに、こんなことを呟いていた。

「毎年、お盆休みが終わった後くらいから、徐々に秋の気配を感じ始めて少し寂しくなる。だんだん暑さに悩まされなくなり、夜に肌寒さを感じるようになり。ひぐらしの鳴き声も、いつも以上に切なさを感じるようになり。秋は秋で楽しいことが沢山あるんだけどね」


切ない夏の終わりも通り過ぎて、ようやく秋の訪れという感じがしますが、金木犀の香りを感じると泣きそうになる。秋の訪れ、幸せなはずなのに。今の時期、気温も高くなくて過ごしやすいし、昼下がりに陽の光に包まれる時間が心地よいなと思えるんだけど、同時に物凄い絶望感に襲われる。思い返すと、過去のこの時期はいつも学祭の準備とかワクワクする予定が沢山あって、秋は毎年キラキラ生き生きしてたはずなのに、どうしてだろう。全てが穏やかなのに怖い。幸せなはずなのに、自然の美しさを実感する度に泣きそうになる。何か重大なことを忘れている気がする。「季節の変わり目に調子が悪くなる」とはまた別の漠然とした絶望感。何も大丈夫じゃない。でも私のことを勝手に守らないで欲しいし、守るべき存在みたいな扱いをしないで欲しい……

星めぐり

詩、短歌、小説、写真、音楽、絵画、工芸品、人形、アンティーク家具、工業製品のデザインについて、その他諸々ありとあらゆる芸術作品、美しいもの、ことばとかたちに向き合い続けた。最初のうちはただただ楽しかったし、躁状態の感性の鋭さに比べたら劣っている気はするものの、「美術館でこれを見たい」とかそんな気持ちが消えていなかったことに少し安心していた。

ところが心の中にモヤモヤを感知し始め、モヤモヤが大きな不安へと姿を変え、とうとうこんな夜中に焦燥感で息苦しくなって、どうしようどうしよう何も生み出せない、何も生み出せない人生だったな、みたいな気持ちになっている。

よく「表現したいものがあるのに実力が追いついていない」と言う人がいるけど、私は最初から表現したいものとかなかったな、なんて、意識して何かを生み出そうとしてる時ほどこう思っちゃうよね。創作活動が捗ってる時は「何かを生み出そう」なんて思わなくても自然にアイデアが浮かんでくるし、とにかく没頭出来るし楽しめる。私をあの状態に持って行ってくれるのが、今のところ躁のエネルギーしかない。「もっと頑張れよ、自分、愚痴ってないで手を動かして創作しろ!」と言いたくなるが、「書こう、描こう……」と思えば思うほど何も生み出せなくなるし、無理やり生み出したものほど醜いものは無い。「かかなきゃ」と努力を重ねるほど最悪なものが出来上がっていく感じ。出来るならまだいいよ、殆どは何も生み出せないからね。でもゴミ作るよりは何も生み出さない方がマシなのかな。

元々表現したいものがあり、絵画や彫刻、写真といった手段を使い自身の思いを落とし込み、出来上がったものを世に向けて発信している人達。色々な作品を見た後は「私も彼らのようになりたい、私も絵を描いてみようか」なんて思ったりするけど、そもそも表現したいものもない私が彼らのようになれるわけがないのだ。ただ上手い絵を描いて評価して貰うのとは違うわけだし。

私なんて、昔も今も「私を見て」しかなかった。最早、生き様しか作品にならない。常々、生き恥晒してる……と思ってたはずなのに何故。

 

谷口菜津子さん(「教室の片隅で青春が始まる」の作者)のインタビューのお言葉

学生の頃、友達が「誰だって自分の人生を小説にしたらベストセラーになると思っている」と発言をしているのを聞き衝撃を受けました。「自分だけじゃなかったのか!!」と。

“特別”になりたい女の子の漫画が、SNSでバズった理由 | 放っておくだけで、泣くほどおいしい料理ができる | ダイヤモンド・オンライン

これを読んで、私も「自分だけじゃなかったのか」と思った。

早く終わらせることばかり考えていた人生だけど、それなりに自分に愛着を持てている。インターネットの世界で自分の内面を曝け出して、私を見てと願うくらいに。余談だけど、やっぱりこういう時に思い出すのは「嘘でもいい 嫌いでもいい 私を見つけて」という歌詞だった。

これからもずっと、全てを暴かないで欲しいけど、丁度いいところで私のことを見守っていてくれ。

 

みんな特別だからこそ、選ばれなかったから特別じゃない、ではないんだよね。そのうち私にも縁があって、私の条件に合うような状況が必ず巡ってくると思う。人間関係にせよ、才能を発揮する場所にせよ。みんなもそう。

パニックになってたはずなのに、最終的に何が言いたかったか分からなくなってしまった。落ち着きを取り戻せたのなら何よりです。寝てね。

主人公

9月7日

専門家に「助けてください」とかいうのは需要と供給が成り立ってるからいいのかもしれない。 ただ、私は結局踏み台にしていく側なんですよね。向こうから「もう来なくていいよ」と言われることを恐れていたけど、専門家である以上、異動とか職務上の特別な都合がない限り、あとは私が相当な問題を起こさない限り、向こうから別れを告げられることは無い。そうやって「いつか見捨てられるかも」とギャーギャー騒いで嘆いている私の方が簡単に専門家を踏み台にして外の世界へ巣立っていくのだ。そうだよ、実際そうなんだよ。私だけじゃなく、世の中「私なんかどうせ見捨てられる、ずっと見捨てないでね!」と言っていた人間ほど勝手にどこかへ行く。私なんか簡単に切り捨てていく。

でも、我々(私と専門家)は最初からお金で結ばれた関係だから割り切って接することが出来る、みたいな所があると思う。需要と供給の一致というか。私が貴方達にしてあげられることは無いどころか、毎回長時間話を聞いてもらい迷惑をかけていますが……ただ、その代わりにお金は支払っている。別にお金さえ払っていれば何をしてもいいってわけじゃないし、支払った金額と私の行いが綺麗にイコールで結びついているわけではないんだけど、それでも我々が専門家に対して出来ることは金を払うことのみ。お金、でかい。専門家と患者という枠組みの中ではそれ以上も以下もない。迷惑かな、とか余計な心配いらないんだよ。多分、本当に迷惑な行動を繰り返す患者もいるだろうけど、とりあえず私と専門家の関係にだけ焦点を戻すと、「最初から金で成り立ってる割り切った関係なんだし、今後も常識の範囲内で病院を利用すればいい」が答え。

そして、病院やカウンセリングは訓練の場であって、将来「(医師やカウンセラーの立場から見て)我々がいなくても生きていけるように訓練しましょうね」ってことなんだよね。踏み台にするというより、人間関係の訓練のようなものだと捉えればいいのかな。ここまで書いて、転移が起きるのは治療的には良い傾向、と言われる理由がなんとなく理解出来た気がする。陰性にしろ陽性にしろ人間相手になんらかの感情を抱くことが出来る=今まで押さえ込んできた感情を表現できるようになる、からかな〜なんて。(全然的外れだったらどうしよう)

 


私よ、今の関係性について悲しまなくていいよ。割り切った関係故の安心感も存在するから……まあ出来ることなら、金銭の発生しない信頼関係を築いてみたかった(我儘)  でも、「金銭の発生しない信頼関係を築いてみたいんですよね」と相談できる相手は金で結ばれてる人間しか居なかった。悲しい〜〜。終わり

 


ただ、お金とか関係なく身近な人にそんなこと相談出来ないし、しようとは思わないな。簡単に踏み台にしていく人間は多いけど。踏み台にされたと感じるくらいだから、我々の間にはもともと信頼関係とかなかったのかな。悲しすぎますね。

 


これは今お世話になっている専門家に対してでは無く、過去に関わった専門家に対しても感じていたことなのだが、「味方だよ」って言われたところで(とても有難いよ、有難いんですけど)、「そんなの当たり前じゃん、金払ってるんだから味方でいてくれないと困りますわ……」という気持ちになってしまう。そんな当たり前のものを、私の信頼関係の数のうちに勝手にカウントするな……貴方達は、たとえ嘘だとしても一緒に過ごしてる時間だけは味方でいることが仕事なんだし。勿論、味方でいるのは相談中の1時間だけでいいし、毎週ここに来る時間以外は私の存在なんて忘れててくれてていいです。1時間の枠を超えて味方になれるわけが無いというか、味方は味方でも種類が違うものだと思う。家族友達知り合いなどと並べて、軽々しく「私も味方だからね」とか言わないで欲しかった。だってお金無しでは成り立たない関係なんだし、最初にお金で結ばれた以上、今後金なしの関係になれるわけがないので。金なしで私的な関係は結べないでしょ?そういうことだよ。ここで「それでも関係は結べる」とか答えなくていいし、私はお金抜きで関係を持ちたいわけじゃない。これは答えのない問いなのです。繰り返しになるが、私は貴方達と金なしの関係を望んでいるわけではない。

ここまでどうにもならないような愚痴ばかり吐いてしまったが、通院できない人やカウンセリングを受けられない人は沢山いるし、私も今の病院やカウンセリングに辿り着くまで本当に沢山回り道して傷ついたので、当たり前とは思わずにもっと感謝すべきなんだよな。金払ってそれなりに話せるだけ(傷つけられないだけ)、昔に比べたら今は全然恵まれている。

 

 

 

9月9日

簡単に踏み台にされたくない。自分だって人の事そんな風に扱いたくない。踏み台にする/されることが悪いんじゃなくて、その後何事も無かったかのようにポイ捨てしていくことが無理なんだと思う。だから、簡単に終わりが来ないような契約関係(察してくれ)を結びたい。そんな簡単に離れられないってことを口約束じゃなくもっとちゃんとした契約として結べたらな、なんて。勿論これは、言葉で縛り付けるということではなく、信頼関係ありきの話。でもその代わりに、何かあっても簡単に後戻り出来なくなるし、契約関係を結ぶというのはそれはそれで苦しいことなのだと思う。

でも本当に、そういう関係は夢があるよな。私みたいな人間にとっては。でも現実世界でそれは無理だわ。あぁ〜〜…気持ち悪い。

 


今日の通院で「トラウマ治療に10年かかる(要約)」って言われて後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。冗談やめて〜。10年あったら死ぬって。精神が死ぬというか、下手したら身体ごと終わりを迎える。たとえしぶとく生きてたところで、周りとのギャップで社会的には死んでいることでしょう。今も半分死んでるみたいなもん。「どうせ普段死にたい死にたい言ってるんだし、タイムリミット10年ならキリよくて良くない?」って思うかもしれないけど、【死にたい私】と【死ななきゃいけない私】と【頑張って生きたい私】は全部別人でそれらが複雑に絡み合って生きているので、「死にたいから死ぬ」みたいにそんな単純に言葉通りに解決できないんだよ。まあ私に限らず希死念慮持ちの人はみんなそうだと思う。鈍感な人ほど簡単に死ねとか言うよね。無責任に人を殺すな。

今の私の心は、現実に押しつぶされて「死んだ方がいいのかな」となる時もあれば、死に魅力を感じて「今はまだ怖いけど、その時がきたら自殺せねば」と考えている時もあるし、はたまた「死にたくないから誰も私を殺さないで」と叫び出したくなる時もあるし……他にも上手く言葉に出来ないけど諸々……と常に混乱している。今日の「治療に10年」は、言われた瞬間はショックを受けたけど、正直自分が病気を治したいのか治したくないのかも分からないし、「今日から全てのトラウマが消えて健やか元気!もう二度と死にたくならないよ!」みたいな状態になったらそれはそれで嫌だなと思う。昔は記憶喪失になれば解決すると思っていたけど、辛い記憶が全て消えて、全身にある自傷跡もなくなってしまったら、それは最早私ではないと思う。

 


周りを巻き込まずに堅実に治療と向き合って10年ってことなんだろうな、だから時間がかかるんだ、と無理やり解釈しようとした。

「治療に10年かけてるうちに、きっと私の周りからは人が居なくなってしまいます」と零したら、「そこは周りを上手く頼りながらね」と言われた。多分もっと周りを頼れば自分自身は簡単に満たされるんだろうけど、私の中ではそれを迷惑と呼ぶ。例えば、私の抱える孤独感や希死念慮を相手に背負わせることなんか、言葉一つで簡単に出来る。でもそんなこと絶対にしたくない。

先生が言っているのは「迷惑をかけるほど何でも他人に寄り掛かる」ではなく「適切に人を頼る」ということなんだろうけど、後者については未だにどういうことなのか分からない。程度の問題なんだろうけど難しい。未だに全部迷惑に分類される。

 


10年かかる治療について、先生は「私じゃ追いつかないから心理士にお願いしたいところ」と言っていた。これは、心理士の専門性に加え、時間的な問題(先生が私の治療にそこまで時間をかけられない)が生じるからだと思う。「時間かけてやるならカウンセリングでね、それでも10年はかかるかな」だって。

それなら、尚更、医師と心理士が提携してる場所でやるべきなんじゃないかな?通院している病院とカウンセリングオフィスが上手く繋がれたら一番いいけど、それは無理な話か。

正直、先生の言うこと全て鵜呑みにする必要も無い。私は10年って言われたらそれをそのまま受け取って信じて落ち込んでしまうタイプだけど、そこは自分の向き合い方次第で数年以内に治るかもしれないし。ていうか本当に10年かけてたら日常生活すら送れなくなってしまうから、そこはもう少しどうにかしようね。

 

 

今日もうひとつ、「悪い影響与えてくる人から逃れられないのは、DV被害者が最終的にDVしてくる人間の元へ戻るのと似てる」みたいなことも言われた。分かる、だって私は傷つけてきた人に未練タラタラの亡霊だもん……「いつか幸せになりたい。もう二度と傷つけられたくない」と思っているはずなのに、愛情を与えてくれたり優しくしてくれる人からは逃げたくなるし、自分を傷つけてくる人と居る時の方が妙な居心地の良さを感じたりする。「傷つけられるのが好きなんじゃなくて、傷つけられる方が違和感がないだけです」と言ったら、この心境は理解してくれたっぽい。

 


もしかしたらこの理論が「先生から離れられない」にも繋がる可能性、あるかもしれない。たまに不信感を抱いても結局逃れられないんだよな。まあ私の人間関係の母数みたいなのが少なすぎて、こっちがダメならやっぱり先生しかないね、にもなりがち。

別に先生のこと嫌いではない。ただ、私のことも家族のことも「自分で頑張って」って言うけど、「いや私たちもう頑張ったんだけど」みたいに思うことがよくある。10年以上苦痛でやっとここに来れたのに、まだ自分で何とかしなきゃいけないのか。いやみんな最終的には自分で何とかしなきゃいけないんだけど(平等)、我々が自分で何とかしなきゃいけないゾーンみたいなの広すぎない?多分私たちが優秀で物分り良くてほっといても自分で答え見つけられる人だからそう思ってくれたんだよね。多分そうだと思う。そういうことにしとこ(ポジティブ)

 


もう本当に、切実に金で結ばれてない関係を手に入れたい。先生のこと踏み台にしたくないとか言ってた私、健気で優しいじゃないか。でも残念ながら医者は私たちのこと金としか思ってないよ……

だからって私は、先生のこと踏み台にしてやるとか利用してやるとは思えないんだよね。まあ先生が少し頼りないことに気づいてしまったから、っていうのもあるけど。

やっぱり金の関係の話は誰にも出来ないよな、と思う。金で信頼買えるけど、「そうじゃないだろ!」って思う。それで、この地獄から救われるまであと10年ってなんだそれ。貴方はそのうち引退するくせに。先生、私が物分りいいからってなんでも言いすぎる時ない?私静かに黙ってるけど、大抵傷ついてます。

 

 

 

過去のブログ(言葉にならずに消えていったものたち - 人形の夢と目覚め)を読み返していて思ったのだが、この時「傷つけられるより、自分から傷つきに行った方が楽」という言い方をしていたんだけど、なんだか自分のことしか考えてないし、他人の痛みに鈍感すぎない?と思ってしまった。それやっても私が傷つくだけで終わりじゃないよ。相手も少なからず傷ついているんだよ。最近はようやくそのことに気付き始めた。まあ、「傷つけられたくないからもう終わりにしたい」と思ったのは、その時の自分は相手と居る時に傷つくことが多かったってことだろうし、別に傷つかずに毎日過ごせるなら自分から逃げようと思ったりしない……はず。いや、どうかな。そもそも私は幸せな状況にすら恐怖を感じてしまう人間だから、幸せに向かい始めると「あっ無理絶対耐えられない、これ以上傷つきたくない」になる。「本当は幸せになりたいのに」と考えている時もあるから本心とは逆の行動をとってしまってる気もするけど、「幸せだけど怖い」は矛盾してるわけじゃなく「私にとっての怖い=幸せ」で本当に幸せになることを望んでいないのかもしれないし、混乱する。

違和感を覚える場所からは逃げたっていい。でも相手に問題がない時は、急に音信不通になるよりも自分の気持ちは伝えた方がいいのかな?とか今更罪悪感。相手に問題がなかったとは思わない。今年だけでも色んなことがあったけど、毎日じわじわ心がすり減っていくみたいで正直辛かった。でもそれは本当に相手だけの問題か?相手に違和感を感じてしまうのは、自分のキャパが足りないせいじゃないですか?

 


まあ結局、戻りたくなるんだけどね。逃げた先で平和な日常が手に入った途端、強烈な違和感を覚える。「この間みたいに毎日傷つけられていた時の方が生き生きしてたんじゃないか」「傷つきながらも頑張っていたあの時の自分の方が強く美しい」、幸せへの漠然とした恐怖感、不当に扱われる方が落ち着くよね。

 

 

 

中庭には楓の木が植えられている

いじめられる夢。

もう学校に通うのが辛くて休学したいと思ってたけど、「とりあえず今日だけでも最後に行ってきなさい」と言われる。ここだけは、過去に休学しようとした時と同じ展開だった。ただ、夢の中の私は、嫌がることなく「分かった、今日だけ頑張る」と勇気を出して学校へ行った。

教室に居る時も、集会に参加している時も、嫌な視線を感じた。そもそも学校が荒れているから、私みたいに真面目に振舞っている人間が異端者扱いされるのは当然かもしれない。集会の間、誰も先生の話を聞いておらず終始ざわざわしていて嫌な雰囲気だったけど、私は背筋を伸ばして体育座りをして耐えた。

集会が終わったあと、あてもなく校内を歩いていた。「もう無理かもしれない」と思って窓を開けて下を見下ろす。ここは五階。流石に死ぬかな。いやそんな簡単に死なないだろうけど、分からない。前に飛び降りた時だって「打ちどころが悪かったら、何階から飛び降りたとか関係なく死ぬからね」って警察に言われたし、本当かも。ただ、今の私は死にたいというより、一歩立ちどまる勇気が欲しいだけなんだ。「助けて」と言えないから、こうやって最悪な行動を起こしてSOSを伝えようとする。SOSが伝わって今の状況が変わりますように、と願っているだけだから、本当に死んでしまったら困る、なんて思っている。でも、自分の気持ちを表現する時は「死にたい」と言ってしまうし、矛盾している。五階じゃ死なないにしても、一歩立ち止まるには大きすぎる代償を払うことになるだろう。

毎日いじめられているから、流石に「生きていても仕方ないかも」とか「誰も私に生きて欲しくないだろうな」と感じるようになってきた。私はそのくらいどうでもいい人間だということは知っている。でも、多分、本当に心の底から消えたいとか死にたいなどと思っているわけではない。だから揺らぐ。「五階から飛び降りるのは怖くて勇気が出なかった――その気になればいつでも死ねるから先送りにしただけ」って言葉で誤魔化してるけど、本当は死にたくないから飛ばなかっただけだ。

これ以上窓の傍に立っていたら、自分の本心に反して飛び降りてしまいそうだったので離れた。でも何処へ行こう。この学校には居場所なんてないのに。下を向いて歩いているうちに、スクールカウンセラーの存在を思い出す。今すぐ病院に行くことは難しいけど、スクールカウンセラーだったら学校に通いながらすぐに利用出来る。今までの人生でスクールカウンセラーにいい思い出はないけど、もうここまで来たら仕方ないからとりあえず足を運ぼう、と思った。

薄暗い廊下を歩いていると、貼り紙をしてある教室が沢山あった。貼り紙をひとつひとつ確認しながら、スクールカウンセラーが居る相談室を探した。廊下の途中で女性が立っていた。この人、どこかで会ったことがあるような。この人が相談室のインテーカーだったかも。

彼女は私に無理に話しかけることはせず、「貴方のことは分かっているよ。利用したくなったらいつでも来てね」という目を向けて微笑んでいた。