葉月の欠片

・"なろうと思ってなれるものじゃないもの"に強い憧れを抱いてしまうと苦しい。

環境が整っていたって、結局本人のやる気次第で簡単に転落する。もちろん努力次第では、もっと上を目指す事が出来る。でも、私がなりたかったものは努力で辿り着けるものではなく、最初から無意識でしか到達できないものなんだと思う。もっと無意識レベルで「好きだからこれを頑張ろう、目指そう」と、考える間もなく実行している自分でありたかった。好きになりたかった。結局そこまでなのか。私が何を目指しているのか分からない。段々混乱してきた。向こう側に行けなかったのではなく、そもそも行こうとしなかった(自分が努力を怠ったのが悪い)んだけど、行ってどうするつもりだったんだろう。相当必要に駆られない限り、好きになる努力をするのは難しい。そもそもそんな努力を強いられる機会はほぼ無いだろう。

 


・たまに、私一人が「大丈夫」とか「これでいい」と思って生きてたところで、その他大勢はどんな評価を下すか分からないんだよな、という気持ちになる。これ逆だったらいいのにね。「その大勢がどんな評価を下すか分からないけど、私は自分を肯定しながら生きることが出来ている」なら解決するのに。

 


・「リスクを犯してまで何かを手に入れたいと思わない」以前に、そもそも手に入れたいものすらないのかもしれない。コンディション次第でかなり他人に流されやすくなってしまうが、「他人のようになりたい」とか「他人が持っている◯◯が欲しい」なんて思ったことない。心から求めているのはきっとそんなことじゃない。本当は誰かに何か言われなくても自分はこれでいいんだと、自分の魅力を理解しているつもりだったし、これ以上何も望んでいないと思っていた。それなのに、毎日些細なことで動揺して息が出来なくなったりする。私の心を惑わせるものの正体が未だに分からずにいる。

 


・殻に籠ることが好きだった。「誰にも知られなくていい、私だけが知っていればいい」に私の全てが詰まっていた。今までもこれからも「どうか私が、簡単に暴かれたり消費されたりしませんように」という思いは変わらないと思う。消費を恐れるのであればこの生き方であっている。でも本当は、人目を避けて一人で殻に籠る生き方が自分に一番相応しいとは思わない。きっと外の世界に出ればもっと傷つくだろう。でも、傷ついてボロボロになって、さらに自分で自分を傷つけて毎日藻掻いてを繰り返して、死を願うくらい真剣に生きることが、そんな生き方をしてこそ、なんて思う。昔の自分に戻りたい。長年生存に対する頑張りしかできていなかった自分を恥じていたはずなのに、最近は薬のせいか病状のせいか感覚が鈍くなり、血まみれで生きることに意味を見出せなくなった。そんな自分が憎い。でも、憎いと思っても、そこで自分を傷つけることはなくなった。それを素直にいいことだと思えない自分がいる。ここで自分に腹を立てないほど不感になってしまったのか。

 


・よく「自分を傷つける"勇気"」みたいな言い方をされることが多かったが、別に勇気なんてないよ、と思う。全て無意識下で行われたことだから。「他人を傷つけたくないから◯◯したくない」と思うことはあった。それは時に、勇気を伴う行動であったと思う。私が持った勇気なんてそれだけ。その結果、自分が傷ついただけ。自分を傷つける選択をした時に、勇気なんて持ったつもりはないし意識したこともない。

 


・初めて病院でちゃんとしたカウンセリングを受けた時に感じたことは、「大抵のことを諦めれば上手くいくんだ」だった。私が求めていること。完璧でありたいこと、何に対しても妥協したくないこと、100点をとりたい、この人に嫌われたくない、近付きたい、これがしたい、認められたい。これら全てが上手くいかないことを受け入れて、自分の本当の能力を理解し、「こんなもんなんだ」と思って生きていく。私に足りないのは諦め、すなわち理想を捨てることだったらしい。何がこんなもん?何故それを受けいれなければならない。私は理想を実現するために努力を重ねてきただけなのに、それが間違いだったなんて。私はこれからどうしたらいいんだ。「無理をしない」とか「ご自愛」がいかに大切なことであるか、少しずつ理解してきたつもりだったが(特にここ数年の間で)、昔の痛みを伴うような生き方も、それはそれで間違ってなかったんじゃないの?と思ってしまう。常に進化していくべきなのに過去に戻りたいだなんて、大馬鹿者もいいところな気がするが。

 

・最近の私は、すぐ「死にたい」で終わらせなくなった。自分なりに沢山考えて、「もう一人の自分に死ねと言われても死ななくていい」と自分を納得させられるようになった。そんなことをしているうちに、「死にたくてパニックになってしまうもう一人の私」が心の奥に引っ込んで出てこなくなった。これは喜ばしいことかもしれない。でも今ふと、毎日泣きながら生きていた頃のことや、「私は死ななければいけないからもう"大丈夫"にならなくていい、狂ったまま誤って命を落としたい」と考えていた時のことを思い出して、「もう私はその状態になることはないのかな」と何故か寂しさを感じてしまった。「自分を慰めるようなことはしたくない、そんな価値はない、正当化しているみたいで嫌い、馬鹿馬鹿しい」と思っていた。正直、今も全くそう思わないわけではない。多分、何かの拍子に逆戻りすることはあると思う。でも、今現在自分がそこそこ大丈夫であることに対して、安心するべきなのに、少し寂しさを感じてしまう。「今死にたくないけど、昔の死にたがりな私のこと結構好きだったな。もう死にたくなくなったし、今後もそう思う機会は無いのかな」とか。私は私によっぽど死んで欲しいのかな。「死にたくない」というよりは「人に迷惑をかけたくない」が勝っている。だから簡単に死を選ぼうとしなくなっただけ、とも言えるかもしれない。勿論それだけでなく、死にたくなった時に、体を痛めつけずに心を紛らわせる方法が少しづつ身については きたんだと思う。全部いいことのはずなのに寂しいし悲しい。今、自傷行為も飛び降りもしたくない。でもこの先の人生でそれらを一切しなくなるのは嫌だなと思う。したくないならする必要は無いんだけど、そのうちまた地獄に戻って生きていって欲しいなと思う。

 

・こうやって生きるか死ぬかで迷ってしまう私も悪いかもしれないが、「何で死なないの?」とか貴方に言われる筋合いはない。言葉通りに受け取って、言葉通りに解決しようとする浅はかさに吐き気がする。そもそも「死にたい」「生きたい」と気持ちが揺れ動くことはあっても、自分に生死の決定権があるなんて思ってない。そんな簡単に死ねるわけがないし、命があることが当たり前でもないと思っている。「死にたいから自殺のための道具を揃える」みたいに、「◯◯だから××する」と、何かの行動で自分を納得させようとしなくていいかなと思えるようになった。◯◯だ。終わり。死にたい。終わり。戦う必要はない。貴方が「どうして死なないの?」と疑問をぶつけるくらい、私は今すぐ居なくなっても困らないような人間かもしれない。そんなことは分かってるよ。「私に死んで欲しい人」の他に、「死にたがりの私のままで居て欲しい人」も存在するかもな、と思った。この数日、私が生きることの裏切りについて沢山考えた。裏切り者の私が消えれば何か解決するんでしょうか。これについての答えが出せずにいる。

 

・「今すぐ死ぬのはやめよう」が出来るようになったが、それはみんなも生きていること前提の話で、親しい人が自分より先に死ぬことはやっぱり耐えられないなと思う。今のところ、私の死生観のベースになっているのは「逃避」なんだなと気付いてしまい苦しい。「逃避」は「救い」にもなる。でも、死が救いであって欲しくない。これは自分に対してではなく、他人に対して思う。どうかみんなが逃げたいと思った時に辿り着く場所が死でありませんように、と心から願っている。