言葉にならずに消えていったものたち

7月11日

以前、「人を失う痛みに慣れたい」などと言った記憶があるが、慣れとかではなく、そもそも失ったなんて捉え方をしなければいいんじゃないかと思う。たとえ疎遠になってしまっても、二度と会えなくても、自分に関わった人は自分の中に残って生きていくから。って先生も言ってました。

 

7月22日

いつか「昨日の続き」が出来なくなっても、思い出はずっと心の中に生き続けるから大丈夫。

 

7月23日

虐められて自殺する夢ばかり見て辛い。まあ、現実世界では「死んだらダメ」って少しは思えるようになったし、今実際に自殺を実行する気がないから夢の中で代わりに死んでくれてるだけかも。

 

7月25日

痣が青〜紫色の時はまだ変な高揚感に包まれていて、患部を「綺麗だな」と眺めていられる余裕すらあるけど、痣が黄色になってくると、もう大分気持ちも落ち着いてきてるし、自分がしたことの重みを実感し始めて少し憂鬱になる。

 

7月26日

・もう二度と誰からも好かれない気がする。人前でご飯を食べられなかった時のことを、急に思い出した。皆のように食事を出来なくて、昼休みが終わってからこっそりお弁当を捨てたこと。何故、当たり前のように食事ができるんだろう。自分だけがこの空間の異端者なんだな、と思いながら寂しく手元のお茶を飲む。食事をする流れで、今はたまたまお茶を飲んでいるんですよ、というフリしてごまかす。本当は一口も食べていないのに。多分この先どこへ行っても、泣いて死にたがると思う。食事とか日常の些細な出来事の度に、「死んだ方がいいのかな」と思って泣く。

・夢の中で私を罵倒する人間――教師や同級生、前の職場の人間たち――は、本当は私なのかもしれない。彼らに罪をなすりつけるかのように、今の自分を正当化するために、私は彼らの姿に変身して夢の中で私を死に追い込むのかもしれない。この読みが違っていた方がいいけど。そうなると、私は私に相当死んで欲しい、ということになる。なんで。

・小学校の教師が怒っているシーンが、未だに鮮明に思い浮かぶ。その殆どが、私が怒られたわけじゃなかったのに、何故か今現実にいる私が涙を流し始める。

・今、目の前に加害者が居なくても、いつか加害者がこの世から居なくったとしても、傷ついた心は一生治らない気がする。どれだけ「暴力を振るう大人が100パーセント悪いので、貴方は絶対に悪くないです」って言われても、もう取り返しつかないよね。暴力って、その時目の前にいた人間を支配させるだけじゃなくて、生涯にわたって人を縛り付けるんだなって思った。直接手を出してなくても、その場に居合わせた人間みんなが傷つく。教室から出ても、体育館から出ても、一生責められている。

 

7月28日

何度も同じことが続くと、本当は「死にたい」と口にしているだけで緊急事態ともいえるのに、外野が「どうせ本気ではない、いつも通り呟いてるだけだし死なないだろう」って気持ちになっていく(その人の「死にたい」に慣れていってしまう)のが本当に恐ろしいなと思う。私は、気まぐれで手を掴んだり離したりするようなことは絶対にしたくない。

 

7月29日

・よく「死にたい」と口にするし、ついこの間も「マンションから飛び降りようかと思った」等と言った。相手の返答は「死のうと思ったくらい辛かったってことでしょ」。違うよ。「飛び降りたい」とか「自殺したい」は実行するかどうかはさておき本気だった。そう訂正したくなる。あとから振り返れば「死ぬ気無かったな」とか「お遊びの感情だったな」と思えても、真っ只中にいる時は本気で死にたいと思っている。本当は、私が一歩踏み出さない限り死の第一段階にも立てないんだけど(第一段階は死ぬ準備のようなもので本当に死んでしまうかどうかは別、死ぬには想像以上のエネルギーを要する)、窮地に立たされた時って死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死んでやるしか思えなくなる。本気だったから、もう少しで飛び降りるところだったし、命が無くなるところだったよ、という心境。

・その時、本人が感じたことが全てなんだから、外野が「死にたい」の本気度を測れるわけがないだろ。ずっと本気だったよ。真っ直ぐ生きると色んなところにぶつかって痛い。

 

8月3日

・いつも何事に対しても「後がない」みたいな気持ちで生きている。すぐに終わりだと思ってしまう。自分で上限をつけては絶望する。生きている限りは、やり直せることがいっぱいあるのに。
時々、自分に対してだけではなく社会に対してもそう思う。「こんなことになってどうするの?もう後がないんだよ」、と。その思いを原動力に変え声をあげれば、社会が変わっていくこともあるかもしれないし、どうしようもならないことだってあるだろう。既に結果が出てしまったことに対しては、「どうするの」なんて言っても仕方ない。現実を受け入れてこれから出来ることを頑張っていくしかない。こうやって誰よりも毎日絶望している割に、「こうならないためには今後どうするべきか」という具体案を出すことが出来ない。絶望する度に、「だから死んでおけばよかったんだ」と思う。簡単に死ねないから何かで心を紛らわせ、現実逃避する。結局逃げてばっかり。絶望の先にあるものを掴むべきなのに。

・些細なことで「こんな結果になってしまってどうするの?」とパニックになる。どうもしない。自分の思い通り上手くいっていたら幸せだったかもしれないけど、上手くいかなかったとしても、明日からもまた日常が続いていくだけ。私が人生を投げ出さない限りは、変わらずに続いていく。いつか思いがけない形で終わりが来ることがあるかもしれないけど、とりあえず今この瞬間、私が投げ出さなければ終わりは来ない。

・私の何が悪いって(昨日も本を読んでいて気付いたんだけど)、「私も悪いし、みんなも悪い」という自己否定・他者否定の姿勢。すぐ死にたがるところとかまさにこれ。否定から入ってよりよい生き方を模索していくのではなく、ただ心を閉ざして諦めてしまうところが問題なんだよな。最近は「逃げたらダメだ」「死んだらダメだ」と言い聞かせて物事に向き合おうとしてるけど、ふとした時に、気づくと「死ねば全部終わる」という考えが頭に浮かんでいる。癖になっている。本を読んでいても、物語の中でやるせないことが起きていると、死んだら終わるのに、と思ってしまう。死が解決策(というか一番初めに取る手段?)であってはならないと思う。

・死そのものが救済であって欲しくはないけど、私にとっては死に思いを馳せることが救いのひとつだったのかもしれない。

・「簡単に死を選んではいけない」ということはじわじわと理解していったつもりだけど、それに伴って、私が今まで避けてきた人生の重み、厳しさ、痛みが一気に降り掛かってきた。じわじわと体重をかけてきたのではなく、突然、本当の絶望に突き落とされたような感じ。逃げた付けが今頃になって回ってきた。

・「どうするの?これからはもう誰も守ってくれないよ」という声が聞こえてきたが、最初から誰も守ってくれてない。完全に一人の力でここまで来たわけじゃないけど、他人守られるだけでここまで来たわけじゃなく、他人の力を借りながら自分で何とか頑張ってきたのだ。

 

8月6日

・「終わりが来るのが怖い」が口癖だが、今まで関係の殆どを自分が台無しにして終わらせてきた、ということに今更気付いた。私の考える終わりとは、自然消滅すること、或いは相手から終わりを告げられること。その前に自分で終わらせたい。向こうから終わりがやってくると酷く取り乱してしまうので、自分で終わらせた方がいい。傷つけられるより、自分から傷つきに行った方が楽だと思う。そうして、分かりやすい傷をつけて、これは目に見える痛みだと納得する。痛くて当然なのだと。本当は無闇に傷つく必要は無い。誰からも傷つけられなかった時に、自分で自分を傷つけなくていいのに。そんな時は逃げればいいだけなのに。痛みで釣り合いをとる必要は無い。「貴方と出会えたことがキラキラした宝物です」と言われた。終わらせなくてよかったね。

・幼い時は「私たち、親友だよね」と言葉で確認し合うことが多かったように思う。或いは、「今日、この瞬間から、私たちは親友ね」と宣言しあってから親友になることが多かった気がする。大人になってからはそういうのがない。親友って思っていいのかな。

・「誰もお前のことなど試していない」  そうだね。私はこんな些細なことで頓服薬を消費してしまう自分のことが何よりも嫌いだよ。そもそも知り合わなければ、生まれて来なければ、こんな思いをしなくて済んだのに、と思っている。消えれば問題が解決するわけじゃないのに。

SNSのアカウントが増えていくのは、懺悔したいことが多すぎるから。それぞれの場所で犯した罪を別の場所で懺悔する。君たちが知らない私が居てほしい。