今年は、途中で挫折することなく読書記録をつけた。と言っても、読んだ本の作者・タイトル・読んだ期間を書くだけだ。昔はこれに五段階評価をつけたりしていたけど、そうやって気合を入れすぎると絶対に途中で力尽きてしまうと思ったので、今年はやめておいた。自分で後から見返して、「この頃何を読んでいたか」「〇〇という作家の作品をどれだけ読んだか」などが分かればいいので、シンプルな記録だけに留めている。忙しくて読書に時間を割けず次の本に手を伸ばすまでに期間が空いたこともあったが、最後まで読みきった本は今日までで54冊だった。途中で読むのをやめた本、児童書・雑誌は含んでいないので実際はもっとあると思うけど。

今は、小川洋子の「沈黙博物館」を読んでいる。無音の自室で、温かい飲み物を用意して、物語の世界に浸っている時間が一番満たされる。騒がしい場所も人も好きじゃない。

今年読んだ本の数は多くはないと思うけど、去年に比べたら圧倒的に自分の趣味の本に熱中できる時間が増えたと思う。ありがたいことです。

50冊以上読んだけど、ほとんどが小川洋子島本理生か、村田沙耶香だ。私は自分と相性のいい話を書く人しか読まず、読んだことのない作家の本を読むなんて冒険は滅多にしないのだ。(他にも好きな作家さんは何人かいるけど、今年はこの3人が多かった)

 

そんな私が、2019年になって一番初めに読んだ本は、三浦しをん「ののはな通信」でした。有名な作家さんだけど、「秘密の花園」(お気に入りです)と「きみはポラリス」くらいしか読んだことがありませんでした。「ののはな通信」は単行本だったので、ボリュームはそこそこあったけど、夢中になってしまって2、3日で読み終えました。この本を読んだ時の衝撃が忘れられない。間違いなく今年一番読んで良かったと思える本でした。今年終わるまで後1ヶ月以上あるけど、きっと不動の一位だと思います。何度も読み返しています。本を読んで感じた時のこと、その当時思っていたこと、改めて書き直そうと思ったけどどう頑張っても陳腐な言葉を並べることしかできなかったので諦めました。1月8日に書いた「月」という日記が全てです。

 

私、本当に安定しなくて(ことが起きてからじゃなくて、多分元々こういう性格なんだと思う)、自分で自分のことがよくわからなくなる。一時期安定していたように見えるけど、それは心の支えがあったからで。でも、心の支えなんて言うと聞こえがいいけど、単なる依存でしかなかったんです。「依存であっても本人たちがそれで納得してるんならいいんじゃない?」と言われたけど、私はそうは思いません。そんな不健全な関係をいつまでも続けていったらお互いに壊れてしまう。(先生と私の場合だと金銭が発生していたが、対価を支払うことでしか成り立たない関係を心の拠り所にするなんて悲しすぎるしおかしいな、と離れてから気づいた)

私の存在が、相手の日常生活に影響してしまうんだったらもう離れるほかないなと思った。そんなの見て見ぬ振りなんてできないし、苦しんでほしくないもの。どうか元気でいてほしい。私に合わせて落ち込まなくていいし、自分が好きだと思えるものに没頭していてほしい。まあそんなのは自分自身にも言えることなんですけど、「一緒にいないとダメになる」「好きすぎて狂ってしまう」って理由じゃなくて「一人でも生きていけるけど、二人で一緒にいたらもっと楽しいから」なんて理由で関係を築けたら幸せだなと思う。でもこの気持ちは意識して作り出すものではなくて、自発的にそう思えるのが理想であって。私がこんなこと言ったから「あんまり依存しないように頑張る」って気持ちになるなら無理させた感すごいし、どうあがいても描いてる理想には近づけない気がしてしまう。お互い無理なく心地よい距離感でいられたらベストなんだけど相当難しいな。でも、変わる努力をしてでも一緒にいたいと思えるのは凄いと思うし、その努力が自分の負担にならないなら頑張ってみるのも手なのかなと思ったり。本当に相性がぴったり合う人なんていないから、みんなどこかで折り合いをつけて生きているんでしょう。こうした方がお互いのためだ、なんて言ったけどそれは世間一般的に見たらそうした方がいいだろうと思っただけで、自分自身の本当の気持ちはと聞かれたら後悔だらけですよ。酷いことしておきながら向き合わずに逃げてしまって。でも、例え元どおりになったとしても、今まであったことをうやむやにして関係を再開すれば、いつかまたきっと同じことを繰り返すと思う。ちゃんと向き合いさえすれば、良い関係を築けるのかもしれないね。

もう望みはないだろうけど、考えるのをやめられません。こんな繋がりになんの意味があるのかわからないけど、冬から春に向かうあの季節、楽しかったです。

すごく理想的な物語を見つけたこと、昨晩見た夢の話、来月旅行すること、そんなこと話す相手もいないし、一人で平気なふりして生きている。先生もいないからね。ふとした時に生まれる“虚しい”とか“悲しい”という感情には気がつかなかったふりをして、明日からまたなんとか。